猫を起こさないように
奈良
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ゲーム「原神第5章5幕・灼烈の反魂の詩」感想

 原神第5章5幕をクリア。このゲームを始めたのがスメールの途中ぐらいからだったので、ナタはフォンテーヌに引き続き、実装順にリアルタイムでストーリーを追いかけることのできた2つ目の国になります。4幕の感想にも書いたように、ナタ編は物語の進行とマップの導入がずっとチグハグな印象があり、今回も豊穣の邦と夜神の国を探索可能な場所として登場させないまま、結末までを語りきってしまいました。しかしながら、生者と死者がひとところに集結して決戦の舞台を作りあげ、炎神と旅人との共闘で歴史の宿痾を討ち滅ぼすという展開は、かつての少年漫画を彷彿とさせる王道中の王道なドラマツルギーに満ちあふれており、ひさしぶりに胸と目頭が熱くなりました。最終決戦におけるギミックやビジュアル表現も、当世現在の最高峰と呼べるクオリティに仕上げてきていて、おそらく数百人規模のチームによる、本来なら潤沢であるはずのリソースをここへ傾斜させすぎた結果、マップの制作が定期更新に追いつかなくなってしまったのではないかと推察します。原神という物語全体のラストバトルさえ、5幕のキャラを各国の主要人物に置きかえた変奏曲になるのではないかと思わせるほどのクオリティで、他人の性行為をドアの隙間から出歯亀するがごとき動画配信ではなく、ゲームを遊戯する主体や壮麗な物語の主人公として、ぜひこれを体験してほしいものです。

 フォンテーヌでは、比較的あっさりしていたラスボス撃破後のウイニングランも、後日談であるマーヴィカの伝説任務とあわせて、たっぷりと長めに用意されていて、フルコース後の甘いデザートと苦いコーヒーのように余韻を堪能させてくれました。現在進行形の世界情勢を前に、「戦争の国」をあつかうことへの薄い忌避感はずっとつきまとっていたのですが、ロシア将校たる「隊長」の選んだ自己犠牲の決断は、彼の長きにわたる苦しみの終着点として、充分な説得力をもって語られていたと思います。さらに、トップに立つ者として「最善の選択」が不可能なことを知りながら、「より悪くない決断」を求めて深く思考しようとするマーヴィカの姿勢も、非常に共感できるものでした。余談ながら、決断の時系列の最突端ーーそこは量子力学的な場所で、意志を決定する瞬間まで猫・イコール・集団の生死が判明しないーーに立ったことのない報道側、野党側、被支配側の方々がする批判に満たない恨み節は、管理側から見れば、すぐにそれとわかるような臭気をただよわせているものです。厳格に民草への中立を維持し、四角四面に生真面目だった彼女が、統治する責任から解き放たれたあとに見せるユーモラスな側面は、なぜか2期8年の任期を終えた米大統領がSNSにアップした、パラセーリングの写真を想起させました。その「決断から降りる日」を指おり数えて待っている小鳥猊下の精神的なアバターとして、雷電将軍ぶりの大きな課金をマーヴィカに行ったのですが、2体目、3体目、モチーフ武器のすべてで「すり抜け」が発生し、阿鼻叫喚の大事故となったことを、ここに報告しておきます。余録としてシトラリも引けてしまいましたが、すでにナタの既存マップすべてで探索率100%を達成しており、マーヴィカともども活躍させる場所がありません。炎の印の奉納数はいまだ最大解放されていないため、新たなエリアの追加はほぼ確定しておりますので、早めの実装をお願いし申し上げます。

 部族たちの物語であるナタ編を読み終えて、つくづく感じたのは、言語化するならば「なにかの集団に帰属し、そこで価値を認められることによる昂揚の、代替不可能性」であると表現できるでしょう。年末年始のどこかで、北海道を舞台にしたドラマの脚本で有名な人物に、「LGBTQを包摂した新しい家族像」についての言質を引きだそうとするインタビューを酩酊状態で見たのですが、非常にスジが悪いと感じたことを思いだしました。かつて、戦争経験者のトラウマが充満した家庭や街路で幼少期を過ごした全共闘の若者たちは、不可思議なことに「地縁と血縁を否定しながら、大家族を肯定する」というキメラティックな結論へとたどりつきました。彼らはひとえに旧世代への反発から、「豪華客船の麻袋で行く半島北部の理想郷」や「富士山麓で高学歴のオウムたちが鳴く場所」を作りだす土壌をせっせとたがやしてしまったのですが、それを「家名や異性愛や婚姻制度に依らない家族」に敷衍させようと飛躍する態度の異常さは、nWoを贔屓にしてくださる方々には言葉を尽くさずとも、ご理解いただけることでしょう。加齢により少々ウロの入ってきたその脚本家は、インタビューの裏にある「脚本」に気づかないまま、「遺伝子による血縁や血縁の集合である家族、生まれによる地縁や地縁の集合である国家に依存せず、高い知性と強い克己によって、だれと生活集合体を形成するか個人で自己決定せよ」と結論づけるのです。そんな最高度の知性と精神的な強靭さを有する人物が、本邦の全人口に対して1割もいる気はしませんし、さらに自戒をこめて言えば、多くの人々は訪れる状況を無思考に許容しながら、ただ黙って不快が去るか不快に心が慣れてしまうのを、じっと待っているだけなのです。昭和の虚業従事者に顕著な、「知性による暴力」を大衆へ行使している事実への無自覚さが、彼らの仮想敵のふるまいと相似形を成してしまっているのは、じつに皮肉なことだとは言えるでしょう。「多数側が幸福だと仮定した、少数側に向ける優遇制度」は、じつのところ歯列矯正みたいなもので、アポカリプティックな事態でインターネットをふくめたメディアがことごとく壊滅した先には、「奈良へ」の感想にも書きましたように、すべてあの「慣れ親しんだ土着の場所」へと帰っていくことでしょう。

 最後に、だいぶそれた話を原神へもどしますと、ナタ編の5幕が提供しているのは、部族の民たちに英雄として受け入れられ、彼らによる万呼の声援を背中にあびながら、土着の神とともに部族の敵へとたちむかうという、本邦においては禁じられた快楽です。特に就職アイスエイジ・エラのオタクたちは、共同体からつまはじきにされてきたと感じているからこそ、「人間集団へ懐疑的になり、おのれの尊厳を守るためだけに、ひとりでいることを肯んじる」ふるまいが、骨の髄まで染みついてしまっていることでしょう。けれど、シンエヴァ批判である「第三村節考」において指摘したように、ありのままの自分をいっさいアップデートせずに共同体から敬意をはらわれ、代替のきかない仕事で他者の役に立てるとすれば、それを拒否できる者はほとんどいないことが、我々の世代に共通する悲劇なのです。たしかに、「生みの親を敬い、家族を大切にし、共同体のために血と汗を流す」ことを肯定する物語は、西洋文明からとめどなく流入してくる、古い直感に反した新しい価値基準にカウンターを当てるための、中華コミンテルンによるプロパガンダだとの指摘は、もしかすると正しいのかもしれません。しかしながら、短くはない年月をかけて時代がひとめぐりした結果、それを魅力的な場所として回帰しようとめざす、世界規模の季節を我々はむかえようとしているのかもしれないーー年当初から続く憂鬱なニュース報道を横目に、初代炎神とマーヴィカのやりとりをながめながら、冷遇された世代でありながらも、比較的マシなほうの顛末をたどった側の人間として、ボンヤリとそんなふうなことを考えていました。とりとめもなく、終わります。

アニメ「サマータイムレンダ」感想

 タイムラインで評を見かけて気になっていた、サマータイムレンダを見る。作画がメチャクチャきれいなので劇場版かと思っていたら、テレビアニメだったのには驚きました。ざっくりまとめると「地方都市を舞台にした伝奇ミステリーの死にループもの」で、この令和の御代において平成初期のエロゲーないしノベルゲー感がすさまじく、往時にタイムスリップしてしまったような感覚を味わいました。雫とか、痕とか、久遠の絆とか、あのあたりと同じ想像力で作られた舞台設定やキャラ造形やストーリー展開になっているのです。6話くらいまではグングン面白くなっていくので、「もしかすると、これは名作かも?」と期待していたら、そこをピークにドンドン失速していきます。何を血迷ったのか2クール目へと突入する頃には、金髪碧眼・方言美少女のスクール水着を愛でる以外に、見るべきものは何も無くなってしまいました。

 まるで、週間少年ジャンプの打ち切り漫画の打ち切り過程をアニメで追体験するような作品に仕上がっていて、「もっと原作を刈り込んで、1クールにまとめられなかったのかなー」と非常に残念な気持ちになりました。肝心の謎解きにしても野球だと思って見ていたのに、「木製バットを膝でへし折る行為をサクリファイスと呼称し、一度だけ4アウト目を許容できる」みたいなルールがどんどん追加されていくので考える気を無くすし、「最初の10週は全力全霊、そこを越えたらあとは余勢で行けるところまで」という語り方は、じつにジャンプらしいと言えるのかもしれませんが、本作のようなジャンルを語るのにはまったく不向きでしょう。もしかすると、YU-NOあたりのシステムでゲームとして再構築すれば、面白くなるんじゃないでしょうか。本作を見てしまった後遺症として、今後は「俯瞰」という単語を入力しようとするたびに恥ずかしくなり、「鳥瞰」などへパラフレーズを行うような気がします。

 もうサマータイムレンダについて話すことは何も無くなったので、無印カイジの話をさせていただきます。利根川のファッキューから始まる、怠惰なフリーターたちへ向けた有名な説教がありますよね。「数千万円はエリートたちが人生を十年単位でかけて手に入れるカネだから、決して安くはない」みたいな内容で、ここまではまあいいとして、「己の人生と向きあわずに時間を空費した者は死を迎えるときに初めて、惨めな人生が本当に己のものだったと気づく」と続くことへ、ずっと違和感がありました。生活者として一目を置いていたアカウントがあり、「いま過ごしているのが自分の人生であるという実感は、ずっとない。だからこそ、何事にも動じずに生きていられるのだと思う」みたいなつぶやきを最後に更新が途絶えてしまっているのですが、私の感覚はこの方に近いように思います。

 これが離人症の症状から来ているのか、氷河期世代の諦念から来ているのかはよくわかりませんが、利根川の言う「ボーッと生きちゃあいない」側にいるはずなのに、人生の最後には「あ、これホンマに自分の人生やったんや」と思いながら死んでいくような気がしています。まるで夏のアスファルトにゆらめく蜃気楼や、主人公にレンダリングされたモブたちの儚い影のようにね……あ、そういえばサマータイムレンダを見てひとつだけ大きな発見がありました! それは奈良の地の言葉と和歌山弁がかなり似ているということです。家人たちが「さわる」を「いらう」、「来ない」を「こやん」、「しない」を「しやん」と表現するのを聞くたびに、「なんだ、この可愛らしい生物たちは……本能的にあざとい線をねらっているのか?」などと懐疑的なまなざしを向けていましたが、本作を通じて方言だったことが判明しました!

漫画「奈良へ」感想

 「奈良へ」読む。奈良県北部在住なので物語の舞台が生活圏と重なり、ほぼすべてのコマのロケーションがわかって、メチャクチャ面白かった。「奈良高やったら大丈夫やろ」みたいな、下手な帝大より公立トップ校の方が通りがいいのも、わかるなーって感じ。

 県民ではない人物の感想は巻末の解説を読んでいただくとして、奈良の住人(非ネイティブ)から見ても、土着の方々(ネイティブ)の無意識に流れているナチュラルな差別意識の感じが、とてもうまく描かれていると思いました。「奈良町ってオシャレですよね!」「あんなもん、花街やないの。三条通りから向こうに子ども行かしたらあかんで」とか、「王寺って日本一住みよい町なんですって!」「あんなもん、××業者の溜まり場やで。すぐ水つかるし、住むとこやないわ」とか、呼吸するように出てきますからね!

 これこそ、私がネットを「世界の半分」だと感じる理由であるし、いくら「正しい」と思われる「進歩的な」場所へと目盛りを指す矢印を押していったところで、手を離せば土着の方が座っているあのゼロ地点へと向かって、自動的にジワーッと戻っていくと感じるわけですよ。それに、目盛りの矢印を押してる方々って、末代が多いように見えるし……って、アンタもだいぶ意識を奈良県に毒されとりますな!

 観光向けに作られた奈良のイメージではなく、粗野で猥雑な「卑」の部分を味わいたい向きに、「奈良へ」、超オススメです。