猫を起こさないように
原神
原神

雑文「虚構ガッカリ日記」(近況報告2025.4.3)

 原神第5章・栄華のバトルアリーナを読了。このお話、屋上に屋を架した大蛇足へのさらなる追加蛇足から、非実在ヘビの足首にリボンまでかけだしたみたいなもので、おのれをいつわらざるホンネの感想といたしましては、「いつまでもナタをこすりつづけてんと、さっさと次の国へ行こうや!」でした。それもこれも、制作ディレクターがマップ導入順の進行管理に失敗して、豊穣の邦での冒険より先に戦争の完全終結を語るハメになってしまったことが、悪印象を与えている主な原因です(妄言)。ヴァレサなる新キャラも、「ピンク髪に恥じらい多めの、怪力で大食いなのに小心な牛娘」という萌え要素をギガ盛りにした、原神世界というよりは昨今のVtuber界隈を模したみたいなキャラになっていて、ホヨバから「オタク君、こういうの好きでしょ? 性癖でしょ?」とウワメづかいに詰めよられても、キリッとした表情で「いや、あの戦争をともに戦わなかった者は、仲間でもなんでもないんだが?」と冷静に返答できてしまうほどの無感動ぶりです。なんの感情もINKEIの傾斜も動かぬのに、豊穣の邦のマップへ干渉できる竜の配置が絶妙に不便なせいで、探索要員としてガチャを引かざるをえないという鬱陶しさは、原神らしからぬユーザー・フレンドリー・ファイア(なんじゃ、そりゃ)な調整になってしまっているのです。終戦後のナタにおいて、登場するたびに炎神の格がどんどん下がっていくのも個人的には大問題で、古い人間ゆえに古い映画で例えておくならば、バグダッド・カフェにおける「トゥー・マッチ・ハーモニー!」の絶叫のあと、さらに2時間ほど映像が続いたようなゲンナリ感だとでも表現できるでしょうか。おい、ヴァレサ! オマエはノット・コーリング・ユーや! 「大戦終了後に、満を持して完成した決戦兵器」みたいなキミの立ち位置は、いったいぜんたいどないなっとんねん! ポッと出ェでがんばらなアカンのに、「演技は苦手だから、後方支援にまわるよー」じゃないんや! それこそ、今回が最後の出番なんやから、ナタの諸先輩方を押しのけて、もっとガツガツ前にいったらんかい、ボケェ!

 あと、遅ればせにアニメ版メダリストの12話を見たんですけど、マイ・フェイバリットであるところの「見なよ…オレの司を…」のコマが、思わずもれでる内面の声や表情のうるささへのキャプションではなく、直球にセリフとして処理されていたのには、心底ガッカリしました。音声エフェクトをかけてホーミーみたいに二重処理するとか、漫画版そのままに背景へ書くーー事実、「絶対に認めさせるマン」はそうなっているーーとか、やり方はいくらでもあったでしょうに、元々の主人公のセリフをオミットする最悪の選択をしてしまっている。メダリストという作品が大好きなので、多少の不出来ならば「黙して語らず」と思っていたのですが、このアニメ版は声優の生声”以外”のいっさいを、漫画版へ足すことができていません。原作の描線や構図を生かさない、簡素な棒立ちのバストアップによる会話のやりとりもそうですが、なによりひどいのはCG丸出しのスケーティング・シーンです。無機質に引いたカメラから、淡々と3Ⅾモデルへ付けられたモーションを追うばかりで、漫画版の見開きや大ゴマが持つカメラと構図のキレ、擬音のデザインやデッサンの歪みから醸成される、あの圧倒的なまでの情感を致命的に欠いている。この12話においても、外野でほめまくるモブのセリフがひどく浮いて聞こえるぐらいの、あんなフニャフニャな暗黒舞踊モドキを見て、リオウ君がツカサ先生に心酔するようになるわけないじゃないですか!

 イライラが止まらなくなってきたので、とばっちり的に単行本未収録のアフタヌーン本誌における展開へ言及しておきます。あのさあ、こんなことになるぐらいなら、北島マヤと姫川亜弓みたく最初からダブルヒロインを明言するか、いっそヒカルちゃんのほうを主人公にしておけばよかったじゃねえか! こっちは12巻をかけて、すっかりイノリちゃんの保護者か熱心なサポーターみたいな気持ちにさせられてんだよ! ヒカルがイノリを物心両面からボコボコにくらすシーンがしつこく何話も続きすぎて、作り手の「イノリの声優にアテレコさせるための悲鳴が書きたい!」というサドマゾ性癖を越えて、ヒカルの言動がほとんどサイコパスになってんだよ! メダリストが正しく終わるためには、「圧倒的な経験と才能の違いを、コーチによる差分でかろうじて上回る」展開しかねーんだよ! それが近年の艦これイベント海域の甲難度みてえに、どうひっくりかえしたって初心者スケーターの勝ち筋は、完全に消えてしまってんじゃねーかよ! 「12年選手の甲勲章32個持ちベテランに、4月からはじめたばかりの初年度ルーキーが、数年前に引退した提督からコーチングを受けながら、次回の夏イベント甲難度でRTAクリアに競り勝たねばならない」みたいな状況にしやがって! 練習ばかりで芽の出ない下積み期間が長くなりすぎて、イノリちゃんを見るまなざしに、かつて「自分がテレビで鑑賞したときには、なぜか必ず転倒する実在のスケーター」へ感じていたマイナスの気持ちが、否応に混入するようになっちまったじゃねーか! キャラクター全員の内面を等価に掘り下げたら、主人公が特別な理由なんてぜんぶ消えちまうに決まってんだろーがよ! こちとら、「実家が太くて、慶應幼稚舎から親戚のコネを使って、一部上場企業に就職」みたいな”血統書の物語”から逃避するために、フィクションを読んでんだよ! たのむから、庶民で雑種のイノリちゃんを、ひたむきな努力だけで勝たせてやってくれよ!

 すいません、ほんの少しだけ激昂しすぎてしまったかもしれませんが、いまは「おのれの寿命とのチキンレースを避けるため、完結した作品をしか読まない」という誓いをやぶってしまったことに、ひどく後悔を感じております。しばらくはメダリストから離れますので、イノリちゃんが「いまだかつて敗れたことのないヤンデレ系サブヒロイン」をブチころがして金メダルをとったら、そのときはそっと教えてください(グラップラー刃牙みたいな主人公補正マシマシの勝ち方だったり、「イマジナリー6回転アクセルの着氷の論評」みたいな話になったら、教えないでください)。

ゲーム「原神第5章5幕・灼烈の反魂の詩」感想

 原神第5章5幕をクリア。このゲームを始めたのがスメールの途中ぐらいからだったので、ナタはフォンテーヌに引き続き、実装順にリアルタイムでストーリーを追いかけることのできた2つ目の国になります。4幕の感想にも書いたように、ナタ編は物語の進行とマップの導入がずっとチグハグな印象があり、今回も豊穣の邦と夜神の国を探索可能な場所として登場させないまま、結末までを語りきってしまいました。しかしながら、生者と死者がひとところに集結して決戦の舞台を作りあげ、炎神と旅人との共闘で歴史の宿痾を討ち滅ぼすという展開は、かつての少年漫画を彷彿とさせる王道中の王道なドラマツルギーに満ちあふれており、ひさしぶりに胸と目頭が熱くなりました。最終決戦におけるギミックやビジュアル表現も、当世現在の最高峰と呼べるクオリティに仕上げてきていて、おそらく数百人規模のチームによる、本来なら潤沢であるはずのリソースをここへ傾斜させすぎた結果、マップの制作が定期更新に追いつかなくなってしまったのではないかと推察します。原神という物語全体のラストバトルさえ、5幕のキャラを各国の主要人物に置きかえた変奏曲になるのではないかと思わせるほどのクオリティで、他人の性行為をドアの隙間から出歯亀するがごとき動画配信ではなく、ゲームを遊戯する主体や壮麗な物語の主人公として、ぜひこれを体験してほしいものです。

 フォンテーヌでは、比較的あっさりしていたラスボス撃破後のウイニングランも、後日談であるマーヴィカの伝説任務とあわせて、たっぷりと長めに用意されていて、フルコース後の甘いデザートと苦いコーヒーのように余韻を堪能させてくれました。現在進行形の世界情勢を前に、「戦争の国」をあつかうことへの薄い忌避感はずっとつきまとっていたのですが、ロシア将校たる「隊長」の選んだ自己犠牲の決断は、彼の長きにわたる苦しみの終着点として、充分な説得力をもって語られていたと思います。さらに、トップに立つ者として「最善の選択」が不可能なことを知りながら、「より悪くない決断」を求めて深く思考しようとするマーヴィカの姿勢も、非常に共感できるものでした。余談ながら、決断の時系列の最突端ーーそこは量子力学的な場所で、意志を決定する瞬間まで猫・イコール・集団の生死が判明しないーーに立ったことのない報道側、野党側、被支配側の方々がする批判に満たない恨み節は、管理側から見れば、すぐにそれとわかるような臭気をただよわせているものです。厳格に民草への中立を維持し、四角四面に生真面目だった彼女が、統治する責任から解き放たれたあとに見せるユーモラスな側面は、なぜか2期8年の任期を終えた米大統領がSNSにアップした、パラセーリングの写真を想起させました。その「決断から降りる日」を指おり数えて待っている小鳥猊下の精神的なアバターとして、雷電将軍ぶりの大きな課金をマーヴィカに行ったのですが、2体目、3体目、モチーフ武器のすべてで「すり抜け」が発生し、阿鼻叫喚の大事故となったことを、ここに報告しておきます。余録としてシトラリも引けてしまいましたが、すでにナタの既存マップすべてで探索率100%を達成しており、マーヴィカともども活躍させる場所がありません。炎の印の奉納数はいまだ最大解放されていないため、新たなエリアの追加はほぼ確定しておりますので、早めの実装をお願いし申し上げます。

 部族たちの物語であるナタ編を読み終えて、つくづく感じたのは、言語化するならば「なにかの集団に帰属し、そこで価値を認められることによる昂揚の、代替不可能性」であると表現できるでしょう。年末年始のどこかで、北海道を舞台にしたドラマの脚本で有名な人物に、「LGBTQを包摂した新しい家族像」についての言質を引きだそうとするインタビューを酩酊状態で見たのですが、非常にスジが悪いと感じたことを思いだしました。かつて、戦争経験者のトラウマが充満した家庭や街路で幼少期を過ごした全共闘の若者たちは、不可思議なことに「地縁と血縁を否定しながら、大家族を肯定する」というキメラティックな結論へとたどりつきました。彼らはひとえに旧世代への反発から、「豪華客船の麻袋で行く半島北部の理想郷」や「富士山麓で高学歴のオウムたちが鳴く場所」を作りだす土壌をせっせとたがやしてしまったのですが、それを「家名や異性愛や婚姻制度に依らない家族」に敷衍させようと飛躍する態度の異常さは、nWoを贔屓にしてくださる方々には言葉を尽くさずとも、ご理解いただけることでしょう。加齢により少々ウロの入ってきたその脚本家は、インタビューの裏にある「脚本」に気づかないまま、「遺伝子による血縁や血縁の集合である家族、生まれによる地縁や地縁の集合である国家に依存せず、高い知性と強い克己によって、だれと生活集合体を形成するか個人で自己決定せよ」と結論づけるのです。そんな最高度の知性と精神的な強靭さを有する人物が、本邦の全人口に対して1割もいる気はしませんし、さらに自戒をこめて言えば、多くの人々は訪れる状況を無思考に許容しながら、ただ黙って不快が去るか不快に心が慣れてしまうのを、じっと待っているだけなのです。昭和の虚業従事者に顕著な、「知性による暴力」を大衆へ行使している事実への無自覚さが、彼らの仮想敵のふるまいと相似形を成してしまっているのは、じつに皮肉なことだとは言えるでしょう。「多数側が幸福だと仮定した、少数側に向ける優遇制度」は、じつのところ歯列矯正みたいなもので、アポカリプティックな事態でインターネットをふくめたメディアがことごとく壊滅した先には、「奈良へ」の感想にも書きましたように、すべてあの「慣れ親しんだ土着の場所」へと帰っていくことでしょう。

 最後に、だいぶそれた話を原神へもどしますと、ナタ編の5幕が提供しているのは、部族の民たちに英雄として受け入れられ、彼らによる万呼の声援を背中にあびながら、土着の神とともに部族の敵へとたちむかうという、本邦においては禁じられた快楽です。特に就職アイスエイジ・エラのオタクたちは、共同体からつまはじきにされてきたと感じているからこそ、「人間集団へ懐疑的になり、おのれの尊厳を守るためだけに、ひとりでいることを肯んじる」ふるまいが、骨の髄まで染みついてしまっていることでしょう。けれど、シンエヴァ批判である「第三村節考」において指摘したように、ありのままの自分をいっさいアップデートせずに共同体から敬意をはらわれ、代替のきかない仕事で他者の役に立てるとすれば、それを拒否できる者はほとんどいないことが、我々の世代に共通する悲劇なのです。たしかに、「生みの親を敬い、家族を大切にし、共同体のために血と汗を流す」ことを肯定する物語は、西洋文明からとめどなく流入してくる、古い直感に反した新しい価値基準にカウンターを当てるための、中華コミンテルンによるプロパガンダだとの指摘は、もしかすると正しいのかもしれません。しかしながら、短くはない年月をかけて時代がひとめぐりした結果、それを魅力的な場所として回帰しようとめざす、世界規模の季節を我々はむかえようとしているのかもしれないーー年当初から続く憂鬱なニュース報道を横目に、初代炎神とマーヴィカのやりとりをながめながら、冷遇された世代でありながらも、比較的マシなほうの顛末をたどった側の人間として、ボンヤリとそんなふうなことを考えていました。とりとめもなく、終わります。

雑文「そしてPC版へ…(DQ3R哀歌)」

雑文「THE ODORU and DQ3 LEGEND ALREADY DIED」(近況報告2024.11.28

 プラチナトロフィーをゲット。つまるところ、私はドラクエ3が大好きなのだ。最後に入手したトロフィーがブロンズの「しんでしまうとは なさけない!」(とてもレア|14.8%のプレイヤーが獲得)だったことに、本作の問題点が集約されている気はします。

ドラクエ3リメイク、グランドラゴーンを10ターンで撃破。すべてのじゅもんととくぎを習得したレベル99のキャラに、はやぶさのけんを装備させてビーストモードを発動したあとは、ほしふるやまびこラリホーとヒュプノスハント4連撃かける3が正しい順番で出つづけることを祈るだけのゲームなので、まだまだターン数は縮められると思います。しかしながら、「10ターン以内に撃破すると、グランドラゴーンとは2度と戦えない」という謎仕様ーー(白と紫の配色で)このおバカさんたちは、最後の最後までイライラさせてくれますねーーになっていて、かつての名作の残骸をストレスフルに遊ぶ日々から強制的に解放され、原神の新エリアのマップ埋めにもどったわけです。ナタの美麗な景色を上空からボンヤリとながめるうち、新要素におもねった不本意の”ゆまとあ”で踏破したアリアハンは、本当の意味でアリアハンと呼べるのか、”ととけけ”あるいは”とととと”がドラクエ最終パーティの「格」を有するのかなど、不思議な不完全燃焼感がふつふつとわきあがってきて、「そうだ、女勇者の”ゆせそま”で最初からやりなおすしかない!」と決意してしまったのでした。

 1周目はプレステ5版だったのですが、「最高のドラクエ体験」をみずからクリエイトするため、steam版を新たにフルプライスで購入ーー36年を日割りすれば1日1円ほどの支出にすぎませんーーして、導入するmodの吟味からはじめました。フォールアウト3スカイリムを魔改造しまくって、4ケタ時間は遊んだ身からすると、ドラクエ3リメイクのmod界隈は悲しいほど盛りあがっておらず、ユーザーインターフェース改善とわずかのバランス調整だけで、ゲームを抜本的に改変するようなものは、まだひとつもありません。それもそのはず、ドラクエ3を「伝説」としてあがめているのは日本人だけで、海外のユーザーにとって本リメイクは、出来の悪い残念な和製RPGのひとつにすぎないのですから! 小鳥猊下が導入したmodを以下に列挙しておきますので、年末年始で新たにドラクエ3リメイクを始める予定のFC版ファンは、参考にしてください。

・サードパーソンビュー(バトル全体を通じて自キャラの背中を表示)
・バトルUIの改善(HPMP表示バーを画面上部で横向きに配列)
・バトル時ボイスの削除(呪文の名前をさけぶのが、聞いてて恥ずかしいので)
・光源による明暗の強化(フレームレート関連と併用すると異様に重くなるので注意)
・ルーラの仕様変更(消費MPを0から8に変更し、迷宮内で使用不可に)
・レベルアップによるHPMP回復なし(リソース管理の楽しさが復活)
・「うんのよさ」と「かしこさ」の仕様変更(レベルが上がるほど弱体化する現状の是正)
・特定装備の持つ性別制限を削除(CERO対策の裏に残された、「男性の欲情を誘う性別が強い」という昭和の倫理観を撤廃)
・ハードモードから経験値とゴールドの減少を削除(ほんと、ゲーム作りのセンスがない……)
・ダンジョンの地図を削除(まあ、すべて記憶してるので、雰囲気の問題です)
・船とラーミアの移動速度を上方修正(言うまでもないでしょう)
・エンカウント率の減少(マップを拡大しているのに、これを変更しない気のきかなさ)

 あと、ゲーム用に調整されていないオケの垂れ流しが気にくわないため、音楽関係も少しさわってますが、権利の問題がありそうなので詳述は避けます(ほぼ言ってる)。ここまでやって、ようやくオリジナルのゲーム体験の背中が少し見える感じになりました。恥ずかしながら、mod入りの2周目にして、はじめて「やくそう」を使い、上と特の存在に気づいた次第です(あらためて、調整不足による多くの仕様の無意味化を実感しました)。でもね、多少なりとも原作への愛があって、ちょっとでも気のきく作り手なら、脳天ファイラーなイージーモードーーパンドラボックス戦で殺しも殺されも逃げもできぬ「千日手」となった話を聞いて、ハラの底から爆笑しましたーーではなく、上記mod群の修正にくわえて、「とくぎ」「せいかく」「とうぞく」「まものつかい」「ふくろ」「範囲武器」を削除し、「パラメータ上限を999から255に」「ルックス(笑)をおとこ・おんなに」「アカイライがさとりのしょをドロップ」まで組みこんだ、オリジナルモードを用意するはずなんですよ。クリア後のダンジョンにしても、SFC版ではFC版経験者にサービスするため、容量不足をやりくりした「本編グラフィックの使いまわし」をしていただけなのに、容量過剰な令和のゲームでそれを嬉々として再現するのは、原作レスペクトというより作り手の怠慢でしょう(冨樫義博の荒れた筆致をマネする呪術廻戦を連想)。

 さんざん文句ばかり言ってきましたが、本リメイクに対する不満の大きな部分を占めているのは、ゲーム内の様々な数値の調整不足と、「秘伝のタレ」たるダメージ等の計算式を変更したことであり、たとえ残骸を縫いあわせたものであっても、私にとってドラクエ3は、やはりドラクエ3なのです。なつかしい地名や固有名詞、定番の音楽や効果音へ身をゆだねていると、人生でもっとも悩みや苦しみからは遠かった日曜の午後へと心がもどっていくようで、さまざまな過去の記憶がよびおこされ、安逸そのものの気分にひたれるのでした。きょうは、ダンジョンの音楽がリピートに入る直前のフレーズにあわせて、小学生の自分が「なかとってーいー、なかとってーいー」と歌っていたのを思いだしました(神戸で幼少期を過ごしたので……)。あッ、ドラクエ3リメイクへの大きな不満をひとつ言い忘れていました! カギで扉を開けるときの「キュイキュイキュイ」という甲高い効果音を削除した担当者は、万死に値します! ほんとオマエら、ドラクエのこと、なーんもわかってねえな!

ゲーム「原神5章4幕・燃ゆる運命の虹光」感想

 原神の第5章を実装分まで読む。特に4幕について、画面内で起こっていることに1ミリも同調できず、これほど物語に入りこめなかったのは、ディシアの伝説任務ぶりかもしれません。その理由としては、受容のための心がまえができていなかったことが半分、ストーリー展開と演出のまずさが半分、といったところです。まず、今回の魔神任務をシロネンの伝説任務だとカン違いしてスタートしてしまったのが、ボタンのかけ違いのはじまりでした。と言いますのも、なぜか大型アップデートに必ず付随してきたフィールド部分の拡張がなく、「6つの部族から6人の英雄を選出する」という設定から、残りの3部族と呼応する新エリアが登場するまで、メインストーリーは先に進まないという思いこみがあったせいです。ナタのそもそものサイズ感も、宝箱の位置を示すトレジャーコンパスの解放前から、既存マップをすべて達成率100%にできてしまったくらいで、スメールやフォンテーヌをふりかえれば、同サイズの新規マップが当たり前のようにドンと追加されると予想するのは、それほどおかしなことではないでしょう。

 シトラリなる胡乱な人物ーーおそらくセリフの翻訳に失敗しており、中国語原文で読まないとキャラ造形がわからないーーの人探しへ同行していたら、あれよあれよという間に、ご近所の顔見知りぐらいの狭い範囲内で、なぜか6英雄が確定してしまい、ナタの全容も明らかになっていない状態から、アビスとの全面戦争がはじまったのは、旧エヴァで例えれば第拾六話Bパートの途中から、そのまま人類補完計画が発動したみたいなものです。そこから、長時間にわたって離脱できない戦略シミュレーション”風”の特殊モードへと移行するのですが、基本的にストーリーは一本道で、なにをしようと成功裡に進むため、ときおり挿入される勝敗率や損耗率などに、フレーバー以上の意味がまったくありません(FF11のデュナミスをやりたいのかな、とは思いました)。MGSを彷彿とさせる姉妹潜入パートも同様で、元ネタとなる和製ゲームから本歌取りを試みながら、57577の枠組みさえとらえきれていないような有様なのです。残念ながら、これらは中華のコピー商品や偽ブランドと、まさに同じクオリティになっていて、時間に追われた定期更新をそろそろ間遠にし、ガワだけマネた仏に魂を入れるための、テストプレイとリテイク作業を優先すべきだと進言しておきます。

 また、ロシアの上級将校に当たる敵方の人物ーー二つ名はそのまんま「隊長」ーーが、「祖国を戦争で滅ぼされたことがあるので、ナタの防衛に協力したい」みたいなことを言いだしたときには、現実と虚構がオーバーラッピング(笑)し、「オイオイ、どのクチがぬかすねん!」と関西弁による激しいツッコミが入りましたし、パイモンがいちいち民間人の戦死を見て悲鳴をあげるのにも、ほとんど初めて「ウザい」という感情ーー「なに、カマトトぶっとんねん! 悲しいけど、これ、戦争なのよねん!」ーーを抱いてしまいましたし、近所の顔見知り6人による謎の儀式によって、なぜか「全部族の一般人が死んでも復活できる」状態になってからの、アビスに対する大反攻と炎神の「一人ドラゴンボールZ」も、ご都合主義の臭みが強くはなたれた「偽りの昂揚」に感じられました。それもこれも、ホヨバのつむぐ物語には、「現在の社会状況や世界情勢へ向けた、批評的な視点」がどこか含まれ続けてきたからで、今回は「ロシア(相当の組織)と共闘して、なに/だれと戦うのか?」から意図をもって焦点をボカしたせいで、描かれるナタ防衛戦と勝利の喜びは、ウソと欺瞞に満ちたものに映ってしまいます。そうなると、戦争の残酷さを伝えるために、景品表示法から課金キャラは殺せないので、その係累を退場させたのも、作り手の打算的な思惑が透けて見えるようで、どこか鼻じろむ感じはありました。

 正直なところ、今回の第5章4幕においては、世界の実相に迫ろうとしながらも、深さが足りずに座礁した印象があり、ホヨバの苦手分野での底の浅さが割れてしまったことで、日本ファルコムやタイプムーンの「世界の深奥には迫らない、なぜなら売る商品がなくなるから」という姿勢は、もしかすると企業体としては正しいのかもなー、とほんの一瞬だけ思ってしまったことをお伝えしておきます。ただ、本編のあとに解放されたシロネンの個別ストーリーは、「母なる狂気」をミステリーじたてでネチッこく描いていて、あいかわらず最高でしたね。シロネン本人も「情に流されない、冷静かつ理知的な工学系ギャル」として、大いに株を上げました(レベルMAX、スキルMAX、聖遺物は軽く厳選ずみ)。やはり、中華のフィクションは大所高所から天下国家などを語らず、「家族の物語」「時間のSF」だけを書き続けるべきなのかもしれません。この2点においてだけは、まちがいなく他国の追随をゆるさないクオリティですもの!

ゲーム「原神5章・ナタ編」感想(少しFGO)

 原神の第5章である「ナタ編」を実装部分までクリア。「戦争が恒常化した国家」とのふれこみから、ジューに対するナチの所業が、歴史の宿痾として残穢するミドルイーストの被虐殺国ーー不謹慎を承知で言えば、スターウォーズ4を持ちだすまでもなく、大衆向けフィクションは「反乱軍視点」を好むためーーが舞台になるだろうと予想していたのですが、フィールド音楽がライオンキングのテーマをモロにアレしている点からもわかるように、アフリカ・モチーフだったのには拍子抜けしました。キリンヤガの映像化を25年待ち続け、ぢじゅちゅ廻銭の連載より20年も早くムンドゥングゥ(呪術師)が主人公の小説を書いたアフリカ通にとって、評価のまなざしは、いきおい厳しいものにならざるをえません。うがった見方ながら、ロシア相当であるファデュイの悪魔化が薄まってきていることとあいまって、中華の経済政策とリンクした舞台チョイスになっているような気がしてきております。まずフィールド部分について言えば、フォンテーヌ編で導入された水中操作は大きなインパクトを与えましたが、ナタ編はここまでのところ既存エリアのギミックを集積させただけになっていて、新奇さの演出に成功しているとは言えません。特に、恐竜へとモーフィングすることで追加されるアクションの一部が、他のエリアならプレイヤーがふつうにできる行動と重なっているため、不便さの方を強く印象づけてしまっています。フィールドのサイズもフォンテーヌより、さらにコンパクトになっており、「狭いエリアでギミックの密度を高める」方向の調整がなされていて、スメールにあった「広大さに由来する冒険感」はかなり薄まってしまっています(まあ、あっちはちょっと広すぎましたが……)。

 また、しばらくぶりに世界レベルの上限が解放され、プレイヤーの強さはすえおきのまま、敵のレベルだけが10ほども上昇し、反射神経の衰えた世代による「帰宅後の酩酊プレイ」は、いよいよ厳しいものとなってきました。さらに地方伝説をふくめ、「元素パズル」や「純粋アクション」な高難度チャレンジが追加されているのですが、「ターゲットロック」「ローリング」「防御」「パリィ」がすべて”存在しない”原神において、一撃で3万超あるHPを蒸発させるボスの攻撃には、「気がくるってる」以外の表現は思いつきません(初回アップデート前のエルデンリングDLCで、大盾もローリングも使えないボス戦を想像してみましょう)。原神の戦闘は、上記のアクション群がない代わりに「元素爆発」なる必殺技の無敵時間を使って敵の攻撃を回避する仕組みなのですが、これに加えて超必ゲージにあたる「元素エネルギー」の蓄積を阻害するオーラを一部のボスがまとうという、きわめてストレスフルなギミックを導入してきました。RPGというジャンルの欠かざる美点は、「レベリングでプレイヤースキルの拙劣さを緩和できる」ことであると、ゲーム制作者のみなさまにはくりかえしお伝えすると同時に、原神プレイヤーの9割が求めていないことが過去のアンケートでも明らかな、高難度の緩和施策をホヨバに強く求めるものです。個人的に、格闘ゲームへ嫌気がさしてプレイしなくなったときと似た感覚があり、このままではちょっとまずいような気がします。開発チームのみなさまにおかれましては、先進国のチーズ・カウではなく、ゲームにはじめてふれる「アフリカの子ども」を念頭においた調整をお願いし申し上げます。

 ここまで、さんざんゲーム部分の文句を言ってきましたが、ストーリー・パートはあいも変わらぬハイクオリティを維持しており、中華フィクションの真髄および真骨頂は、世界的な超ヒットとなった三体の例をとりだすまでもなく、「気の遠くなるような長い時間」のあつかい方であることを再確認しました。ナタの炎神であるマーヴィカは「赤髪ライダースーツのお姉さん」であり、開いた胸元にはじまる前面のチャックが股関に向けて伸びてゆく、昨今のポリコレ潮流をガン無視したギンギンにセクシャルな造形ながら、彼女を形づくる内面には毛ほどもチーズ・カウ的な劣情を混入させないのは、原神や同社の崩スタの大きな特徴だと言えるでしょう。今回はストーリーの初期から、炎神とのコミュニケーションを深める機会が幾度も設けられており、自然と「TINTINスタンディングの状態から、その魂の高潔さに触れて、崇敬の念に膝を折る」気持ちにさせられるのです(マーヴィカが実装されたあかつきには、雷電将軍と同じだけの課金をしようと固く心に決めました)。また、ナタにおける部族たちの時間感覚は「過去・現在・未来がひとつながりの糸(未来からのホットライン!)」のようになっていて、「個人のふるまいに対する集団の記憶が、長い時間をかけて英雄を形づくる」という仕組みは、非常に考えさせられるものがあります。エス・エヌ・エスでは「いま、この瞬間」だけが常にフォーカスされ、個人の感情を微細にドぎつく言語化してゆく一方で、ロングタームでの集団の記憶は形づくられにくくなり、人々に行動の規範を示して皆の精神を鼓舞するような「古名」は、出現をさまたげられてしまうのかもしれません。

 そして、ナタ地方においては「モノに宿る記憶と精神」が現実へ物理的な影響をおよぼす描写があり、これは重要な伏線になるだろうと予想しています。炎神の孤独と責任の旅路を慰撫すべく、建築物か美術品へと託された「500年前に妹が残した、姉へのメッセージ」がどう描かれるのか、いまから楽しみで仕方ありません。「人間であった時期があるから、私はこの世界を愛おしく、守る価値のあるものだと信じることができる」という彼女の言葉は、現代の孤独な王たちの倦み疲れた心を癒すものではあるでしょう。「王になる」とは、個人であることを捨てて、計画やシステムそのものと同化することに他なりません。夜中に自室で「だれかがここで、やらねばならぬ」とつぶやいた言葉が、ふいに呼び水となって号泣するような、元より少ない仲間をさらに失った就職アイスエイジ・エラのマネジメント層にとって、炎神マーヴィカのふるまいは、まるで血を分けた同志のように感じられることでしょう。最後に別作品の話をしますが、FGO奏章IIIの中編における、箱男の文化的対偶であるところの盾女が叫ぶ、「いえ! わたしひとりで、やるのです!」という決意の言葉は、ファンガスその人がFGOのライティングへ向けた宣言のようにも聞こえて、ひどく胸をうたれました。あなたとはちがう世界に生きていて、組織の規模も養うべき人間の数も、きっとケタ違いなのでしょうけれど、わたしもここで、ひとりでやってみせます。

ゲーム「黒神話:悟空」感想

 待望の「黒神話:悟空」を第2回(章に相当)の、おそらく中盤までプレイ。まず、ゲーム部分をサッと湯どおしするように腐しておくと、システムはゴッド・オブ・ウォーをベースにダークソウルを隠し味に加えて、そこから防御とパリィを引いたものとなっています。武器はもちろん如意棒の一択であり、ボス戦は敵の大技をローリング回避しながら、FF16ばりに少ないダメージをペチペチーー効果音がショボいので、本当にこの擬音がピッタリくるーーと地道に累積していく以外の方法がありません。比較的ダメージ量の大きいタメ攻撃もあるにはあるのですが、道中の雑魚敵を気持ちよく処理するのには使えても、ボス戦ではほぼ役にたちません。なぜなら、こちらのタメ攻撃に対してはエルデンリングばりの、まるでキー入力をダイレクトに検知しているかのような超反応による「潰し」が入るからです。このことに気づくまで、濁流に下半身を封じられた南斗水鳥拳のごとき「跳べない猿」をしつこく棒で跳ばそうとし続け、PS5のコントローラー1個を破壊しました。近年ではゲームソフト1本よりも価格が高いぐらいになっており、破壊へのハードルは格段に上がっているはずなのですが、それさえも抑止にならず、このゲームはみごとに小鳥猊下から「撃墜数1」をあげたわけです。キー入力に対するレスポンスも微妙につっかかる感じがあり、あと一撃というところでR2L2を同時押しーーなんなん、この意味不明のキーアサイン?ーーする妖怪技が不発で得勝を逃したときには、夜中にもかかわらず魂の絶叫がほとばしりでました。もし今後、nWoの更新が長く止まるようなことがあれば、脳か心臓の血管に由来する激情型突然死か、近隣住人の通報による措置入院のせいだと考えてください。

 全体の進行は「オープンワールド風味の、枝分かれが若干ある1本道」になっていて、移動を制限する不自然な透明の壁があちこちにあり、関所のように立ちはだかる理不尽の中ボスを倒すまで、ゲームの進行は完全に停止します。アンリアルエンジン5によるフィールドは美麗さ優先で作られており、スターフィールド用に新調されたデスクトップPCでさえ、処理落ちで重くなる瞬間が何度かありました。また、レベルデザインが甘いため、ふつうはプレイヤーの強化にともなってゼロにまで漸減していくはずの経験値が、いつまでも固定された数字で入るので、ダークソウル式のリスポーンを利用して同じ雑魚敵を何度もたおすことで、序盤エリアから延々とレベル上げができてしまいます。この脳死周回はファミコン時代のレベリングを想起させる絶妙な楽しさーー普段の労働が「同じ内容を、同じ精度でくりかえす」ことに特化しており、性格由来の強い耐性があるーーであり、おかげさまで米国の共和党大統領候補みたいな略称を持つアニメの最新更新分までを、ながら見で履修完了しました(感想は言いません)。サッと湯どおしするだけのつもりが、「高温のコークスで、まる鍋の底を真ッ赤に焼く」みたいになってしまいましたが、本作に対する評価は言うまでもなく、120点です。なぜって、あの斉天大聖・孫悟空をプレイアブル・キャラとして操作できるのですから! この感情は、ワンサイズ小さいパンツでパンパンーー単なる擬音で、他意はなしーーになったムチムチの尻を誇示し続ける整形顔少女が大活躍のステラーブレイドによってかきたてられた欲望と、まさに陰陽をなすものだと言えるでしょう。半島と大陸の新進ゲームメイカーが、世界におのれたちを認めさせるための、言わば社運をかけた乾坤一擲の大バクチに、「美への欲情」と「猿の英雄」をそれぞれ選んだのは、文化論的にも非常に示唆に富んでいると指摘できるでしょう。同時に、本邦の例の超人気マンガに名前ごと上書きされてしまった自国のIPを、巨大な物量で塗りかえすことで取りもどそうとする静かな意志を、ひしひしと感じます。

 昭和後期に青春を過ごした人物は当時、おそらく国交正常化によって醸成された機運から山ほど作られた西遊記オマージュ作品に、心の深い部分をコンタミされており、原神インパクトに続いて長く閉じられていたフタを開かれ、その繊細な部分をひさかたぶりに外気へとさらされた気分になっております。いまパッと思いついた順にならべてみると、「そうさ、いまこそアドベンチャー」は言うまでもなく、「火の玉、悟空の大冒険、ドカーン!」や「ニンニキニキニキ、ニニンが三蔵」や「そこにゆけば、どんな夢もかなうというよ」など、傑作・怪作の数々がそろいぶみ、もしかすると「さらば地球よ、旅だつ船は」さえ、原作小説のSF的翻案だったのかもしれません。個人的には、たぶんタイムラインのだれも見ていないだろう、チャウ・シンチー監督の「西遊1&2」が大好きで、ガンダーラ編を描くだろう3の発表をいまだ心待ちにしているほどです。「黒神話:悟空」は、盛大にネタバレてしまえば、三蔵法師を無事に天竺へ送りとどけてから、悟空が作品舞台を再訪する後日譚であり、西洋文明のこざかしい批評家による「ストーリーは断片的で支離滅裂」などという指摘は、東洋文明における聖書に該当する書物についての基本的な知識すら持たないという、教養の欠落とむきだしの差別心をそれとは知らないまま、恥しらずに露呈しているにすぎません。たとえば、旧約聖書のテキストをそのままゲーム体験に落としこめば、ストーリーは現代の感性に照らして意味不明なものになるでしょうが、その指摘に対して金髪碧眼のサルは、黄色い肌をしたバーバリアンどもの無教養を、口をきわめてののしるにちがいないのです。

 ともあれ、全クリしたら(できたら)、また小鳥猊下の申しのべる感想をタダで読めるわけであるから、諸君はこれから壊れるだろう複数個のPS5コントローラーの代金(値上げ後は、1万2千円超!)として、noteにお気持ちを課金してよい。

ゲーム「崩壊スターレイル・第3章前半」感想

 崩壊スターレイル、ピノコニー編を実装部分までクリア。本作のシナリオは、同社の他作品と比して「情の原神、理の崩スタ」とでも評すべき、仮面ライダーみたいなテイストの棲み分けになっています。「新規のSF的概念」「組織と人物の相関図」「各キャラの台詞と、その裏」を、かなり丁寧に読みこんでいかないとストーリーの本筋が理解できない作りになっていて、グラフィックというよりテキストに強く依存した形式は、かつてのゲームブックを彷彿とさせます。その一方で、JRPGに向ける怖いような畏敬から造形されたフィールド部分に、イヤというほど盛りこまれた大量のギミック群は、本邦のユーザーに「知育玩具」と揶揄されるぐらい、わざわざプレイさせる意味を哲学的なレベルで考えてしまうほど単純なものばかりで、「漢詩の教養が市井の一市民にまで浸透しながら、理系分野においてはいまだひとつもノーベル賞の受賞がない、スーパー文系国家」である事実に由来しているのではないかと、邪推しておる次第です。理系分野の根幹を成す数学という技術は、乱暴な言い方をすればIQテストのパターン認識と事物の抽象化であり、「重厚なシナリオと対極をなす、簡素きわまるパズル遊び」は、中華のその特性にピッタリと合致するように感じられます。

 第三章前半のストーリーについて言えば、今回も世界情勢との意識的なリンクをうかがわせる内容になっていて、故郷を失った「星間難民」であるヒロイン(ホタルたん!)が違法なデバイスを使って夢の世界に密入国したことを告白するくだりは、世界各国の12言語を相手に物語をつむぐホヨバにしか、正面から取りあつかえないだろうと思わせるもので、そこへさらに「筋ジス患者にとってのバーチャル・リアリティ」とでも表現すべきハードな詩情を盛りこんでくるのです。最近、タイムラインに流れてきた「現実が厳しい者は仮想現実を選び、現実に満足している者は拡張現実を好む。それを証拠に、メタクエストは500ドルで、ビジョンプロは5000ドル」という記事を読んださいには考えもしなかった、「現実への充足」とはカネや社会的地位だけを意味するのではないという気づきを前に、五体と五感が不足なく動くことを当然とみなす人物の背筋は、内省によってわずかに伸びる感じさえありました。パイモンのしゃべくり一人称で進行してゆく原神と比べて、崩スタは無言の主人公と距離をおいた三人称のカメラで語られるせいか、ただでさえ速いストーリー展開は緩へ急へとさらに大きな振り幅を見せ、そのドライな筆致によって重要と思われる人物を拍子抜けなほど、アッサリと退場させたりする。もしかするとその唐突ささえ、第三章の後半であつかわれるだろう「夢の中での死は、精神的な死である」という指摘が、いかなる実相をともなうかを種あかしの中心にすえたミステリー要素の一部なのかもしれず、いまはあらゆる想像や予断を外して心静かに続きを待ちたい気分でおります。

 そして、ここまでのマジメな考察と分析をすべて台無しにする萌えコションならではの視点を、我慢できず露出狂のようにまろびださせていただくならば、ピノコニー編に登場する多くの新キャラのうち、なんといってもその白眉は金槌花火(たぶん偽名)たんでしょう! この少女は、下品なワードなので自分のテキストに残すのも正直はばかられますが、いわゆる「メスガキ」というエロマンガ由来のネットミームからその造形をスタートしつつ、その概念をいったんすべて脱構築してから、異なる位相で再構築したキャラになっているのです。同ワードを用いて、本邦の創作者たちが描くだろうエレメンタリー・ガールを想像してみましょう。いま貴君の脳内にうかんでいる、魚類に関するワードを連発する記号まみれのコピーキャットから遠ざかって一個の人格を編みあげた上で、なお「メスガキ」と呼ぶにたるというのは、じつに見事な手腕です。これはまさに、足し算と掛け算をいったん別宇宙に分離してから再構築するがごときアクロバットの所業であり、金槌花火(おそらく偽名)たんの存在は、美少女ゲーにおける宇宙際タイヒミュラー理論だとさえ言えるでしょう(言えると思う……言えるんじゃないかな……まあ、ちょっと覚悟はしておけ)。画面外の大きなお友だちは大興奮なのに、画面内のキャラたちはだれもがうっすら彼女のことを嫌っていて、すでに「どうしてみんな、しかめっ面するの」みたいな負けフラグも口にしており、「登場時に必敗を前提とした優越を持つ」みたいなルールを付与されているところまで再現されていて、花火たんが今後いかに敗北するかを想像するだけで、もうワクワクがとまりません。

 あと気になったのは、特に三月なのかや今回のヒロインであるホタルたんに顕著なんですけど、朗読されるセリフに息つぎのブレスが入りまくるところです。これって本来は編集で消すべきなのか、話し手がブレスの瞬間にマイクを外すべきなのか、どっちが正解なんでしょうか?(旧エヴァ第弐拾弐話のビデオフォーマット版で、「時計の針は元へは戻らない」というゲンドウの台詞の直後に、本放送版ではなかったかなり大きめの息を吸いこむ音が収録されていて、演出意図なのか消し忘れなのかわからず延々と悩んでいたのを、いま思いだしました) 最後に、中華サイファイから理論物理学へと連想ゲームを飛躍させた近況報告で終わります。以前、ピーター・ウォイトのブログを週イチでチェックしていることをお伝えしましたが、あれだけ厳しく弦理論をとりまく状況を批判しておきながら、リジェクトされた論文未満の万物理論に関するアイデアを科学誌のインタビューで得々と語ってしまい、ストリングスの専門家と同じ不健全さでマスコミを利用しているとブログのコメント欄が炎上していることに、満面の笑みを浮かべております。もっとも冷静かつ論理的であらねばならない理系分野のテニュアどもが、ほとんど2ちゃんねるやツイッターみたいなレスバトルをくりひろげている様子を極東の観客席から眺めるのは、(ビールの泡を白ヒゲに、破顔して)本ッ当に最高の娯楽ですね!

ゲーム「原神・閑鶴の章」感想

 原神の最新アップデート部分をクリア。「フォンテーヌと璃月はつながっている」という伏線の解消に、シルクロード的なエリアをはさんでくるのかと考えていたら、璃月エリアの拡張を中華の願望そのままに、ガチャッとフォンテーヌの隣へ接続させたのには、思わず苦笑してしまいました。原神はチャイナ発のゲームなので、同国をモチーフにしたエリアやキャラが増えていくのは仕方のないことですが、「鶴の仙人(鶴仙人!)をメガネ美女として擬人化するのは安直にすぎませんかね、更新頻度が高すぎてついに息ぎれですか?」などと、ヘラヘラ弛緩した笑いを笑っていたら、いつも通り原神のオハコである「家族の物語」を火の玉ストレートでキレーにみぞおちへと食らって、胃液を吐きながら号泣するハメになるわけです(学習しませんね)。実家を離れて都会に出た2人の娘を心配してコッソリ職場を見に行く母親の様子は、まさに子育てが終わったばかりの「空の巣症候群」の心情によりそったものだし、両親に先立たれて認知症のはじまった祖母と2人暮らしする少女について、ヤングケアラーなる珍奇な欧米の概念を用いず肯定的に描いているのも、その確信に満ちた手つきにほうと嘆息がもれます。つくづく思うのは、本邦において標準的な中央値の生活をしていると、「何者かの意図」みたいな陰謀論は申しませんが、うっすらと家族を嫌うように仕向けられていく気がしてなりません。当事者でない状況へわざわざ首をつっこんで口角泡をとばしたり、他者のルールをユニバーサルなお仕着せと信じて袖を通すのではなく、色川御大の言葉を借りるならば、我々はもっと「既製品ではない、手縫いの生き方をつくる」ことにのみ心を砕くべきだと強く思います。様々な形式の言語芸術が存在する中で、太古の昔より作りごとにすぎない虚構が途絶えず物語られ続ける理由は、自分ではない主観を通じて「手縫いの生き方」を追体験できるからで、その意味において、のちに仙人の弟子となるこの少女は、断じてヤングケアラーなる単語でおしはかれる存在ではないのです。

 永遠も半ばを過ぎると、多かれ少なかれ「取り返しのつかない後悔」はだれの中にも生じてきて、これを書いているのは大作ゲームを始める前に「ゲーム名」「取り返しのつかない要素」で必ずグーグル検索ーーバルダーズゲート3も2章の終盤で「取り返しのつかない要素」があまりに多くなりすぎて、頓挫してしまっているーーする人物なのですが、「あ、これ、ホンマに取り返しつかへんのや」との冷えた実感が、骨の髄まで浸透する人生のステージへとさしかかりつつあります。今回の伝説任務の終盤で、物忘れの果てに「人でも獣でもないモノ」と化す前に本来の姿へ戻ろうとする祖母へ孫がかける言葉、「おばあちゃんにとっては後悔ばかりだったのかもしれないけど、そのおかげで私はこの世に生まれることができた」は、物語の称揚による劇的な負の反転であり、ありえなかったはずの後悔の取り返しであり、「ジャパニーズ・フィクションa.k.a.中年男性が裏声でする十代のジャリの世迷言」では決してたどりつかない深い人生訓であると同時に、人間讃歌にさえいたっていると言えるでしょう。全共闘に端を発した「体制殺しによる国家解体」のカーボンコピーである「毒親殺しによる家族解体」をテーマとした昭和の物語群が、ついに新しく来た若い世代によって上品に忌避されはじめたことで、原神の大ヒットが生まれているのだとすれば、世界は確実に良い方向へと進んでいるのだと感じられます(いまなら、「昭和のフィクションたちの墓標」として、シン・エヴァンゲリオンに歴史的な評価を与えることができる気さえする)。また、「いやしい身分に己をやつしてまで、親の意に染まぬ相手とかけおちすることを選んだ娘」に対して、表面上の怒りとは裏腹に陰ながらゆるしと慈しみを与えるキャラの描き方は、「バブみ」や「オギャる」などの空疎なワーディングでしか、母性の輪郭を表現できなくなった本邦でのそれとは異なり、真の意味での「母なるもの」を篆刻していると言えるでしょう(本シナリオを読了後、レベルMAX・スキルMAX・聖遺物の軽い厳選・モチーフ武器への課金を最速で完了しました)。

 あと、パイモンが夢を見ていないことに気づく描写が一瞬だけ挿入されるのですが、いよいよ原神世界はペガーナの神々におけるマアナ・ユウド・スウシャイ(MMGF!の元ネタ)の、あるいは幸福な妖精の見る「夢そのもの」である可能性が高くなってきましたねー。

映画「アイの歌声を聴かせて」感想

 数年ぶりにスカイリムをインストールした話、しましたっけ? 年末年始の休みにドバッとまとめてメインストーリー部分をプレイするため、10月くらいから毎日コツコツとMODを入れては、競合の解消やロード順の調整に努めてきました。以前のパソコンでは重すぎてゲームにならなかった4KテクスチャMODが、fpsを下げずに動いたのには感動しましたし、近年のくだらない風潮によって、エロMODのあふれかえるNexusからさえ姿を消した、現実生活では個室での音読すらはばかられるMODをダークサイドウェブ(笑)よりサルベージしてドキドキしながら導入したり、ストーリーを進めるための装備を作る目的で鍛治・符呪・錬金などの生産系スキルを上げているとき、ふいにウルティマ・オンラインを始めたばかりの記憶がよみがえったりして、本当に楽しい2ヶ月間でした。

 それが先日のこと、突然ゲームが起動しなくなったのです。首をかしげながらSKSEの更新状況を確認し、MODをあれこれと差しつ戻しつ試行錯誤をくり返しても、ウンともスンとも言わない。よくよく調べてみると、野良MODを一掃するべくゲームファイルの根幹に抜本的な変更を加えるアップデートが、それこそ10年ぶりに行われたというではありませんか。この所業はまさに、長きにおよぶファンたちの熱意や愛情へ向けて枯れ葉剤を散布するかのごとき暴挙であり、ベセスダの親会社のゲーム畑以外から就任した役員が「素人どものMODを取りしまって、同じ機能の公式MODで置きかえて課金させれば、ずいぶんもうかるじゃないか。なぜ、こんな簡単なことを思いつかなかったんだ?」などと経営戦略会議で放言する様がまざまざと脳裏に浮かび、怒りで視野が狭窄しました。かように、人や文化を育てるのには穏やかな場所と多くの善意と変化にとぼしい長い時間が必要とされるのに対して、それを終わらせるのには一人の部外者の思いつきと引き金をひく一瞬で完全につりあってしまう絶望的な不均衡が、現在進行形にくり広げられるこの世の不幸の実相である気がしてなりません。まあ、制作に6年をかけた超大作であるところのスターフィールドが、ゲーム・オブ・ザ・イヤーでジャンル部門のみの温情ノミネートにとどまり、受賞は絶望的という盛大なポシャり方をしたせいで、”ちいやわ”社がベセスダに対して収益構造の見直しを迫ったというのが、本当のところに近いのでしょう。

 こうして、スカイリムが過去の美しい思い出ごと完全に視界から消滅したあと、一日の終わりのア・フュー・アワーズにすべりこんできたのは、原神において各地の探索率を100%にする作業でした。鋳造したコンパスなどを使いながら、宝箱や神の瞳をチマチマ探す行為は、マリオ64での「スター120個と全ステージの全コイン取得」のそれをどこか思いださせ、かけた時間が必ず積みあがるという点で、たいへんに心やすまるひとときとなっています。バージョンの変遷にともなうマップの進化もクリアに見えてきて、茫洋として特徴に欠ける丘陵のモンドから、パキッとした高低差で地形を表現する璃月、ギミックの量とシビアさにイライラがつのるーーあらゆる崖にCHINPOのカリみたいなネズミ返しがついている地味な嫌がらせも!ーー稲妻、気合いの入ったマップが広大すぎて探索の喜びを移動のダルさが上回るスメール、そしてここに至るすべての反省を生かしたちょうどいいサイズ感で探索の楽しいフォンテーヌと、着実な改善がうかがえるのはじつにすばらしい点だと言えましょう。この推移を分析したさいに浮かびあがってくるのは、「謙虚で内省的な、頭のいい中華人民」という人物像であり、エンタメ業界の皆様にはあらためて、アホのインフルエンサーが暴れまわる煙幕の向こうにキチンと敵の実体を見きわめておかねば、今後の勝ちをひろうのは難しいだろうとお伝えしておきます。

 その探索率100%の旅のオトモに、アマプラで「アイの歌声を聴かせて」をながら見していました(ここからが本題です)。ぶっちゃけ、「君の名は。」の下に2匹目のドジョウをねらった数匹目のヤツメウナギではあるのですが、冒頭のSF的なビルドアップが秀逸で「日常のガワはそのままに、中身と部分へ革新が忍びこむ」というのは、ブレードランナー的な描き方になっていて、説得力あるなーと感心しました。人工知能がする言動の不自然さを、発達の特性によるエキセントリシティへとまぎれこませるのも、「木を隠すなら森」で大いにうなづけるところです。しかしながら、このふるまいを許容されるのは女性だけであり、男性ならば即座に場から排除されるのを理解した上での描写だとすれば、シンカイ・サンが先鞭をつけてしまったゆえに、「雨後のタケノコ」いう言い方が類型的すぎるなら、日陰の石の裏の湿った場所から地虫のごとくゾロゾロと這いだしてきた「地方在住の女子高生ヒロイン」というバニラへ、どんなフレーバーをトッピングするかというだけの違いを持つ作品群へ向けた、批評的な視点をはらんでいるのかもしれないと一瞬だけ思いましたが、すぐに気のせいだとわかりました。そもそも、「学校にまぎれこませて、見破られないAIを作れるか?」という命題以前に、「動作から表情から、じっさいに触れられてさえ、完璧に人間を擬態できるガワ」の実在が、まったく言及なくスルーされている時点で相当なファンタジーであり、多少の強引な筋書きは美麗な絵と歌唱でねじふせてゆくミュージカルとして視聴するのが正解かもなー、などと考えつつ、ヘラヘラとながら見していたのですが、物語の後半へと進むにつれて眉間のシワはどんどん深まってゆきました。

 決定的だったのは、シングルでバリキャリの母親がひとり娘をヤングケアラーとして家事を丸投げし、連日の午前様で家庭を省みずに人生を捧げてきたプロジェクトである人工知能なのに、小学校へ上がる前のハッカー少年が手なぐさみで作成したものに、いつのまにかすりかわっていたと判明したときで、「大人をコケにすんのもたいがいにせえよ、ジャリどもが!」と思わず絶叫していました。この「40代経産婦を対象とした、サイファイ風味のキャリア・ネトラレ」は、あまりに特殊な性癖すぎて、私のINKEI(ナイキのアナグラム)は恐怖に縮みあがり、ふかふかのTAMAKIN(金玉のアナグラム)内部へと後退してしまったほどです。そして、このテの青春グラフィティでいつも気になるのは、「勉学と進路に多くの時間を費やさなくてはいけない時期に、女子たちが色恋沙汰へと時間を全振りする」有り様です。本作に登場する男子たちについて言えば、ハッカー少年は旧帝大か海外大の理系学部にノー勉でスルッと現役合格するに違いないし、自らを80%となげくイケメンも東京の有名私大に推薦入学するだろうし、柔道ボーイも高卒で農業か土方ーーいやだなあ、”ひじかた”ですよ!ーーをするか、地元の三流大から声のバカでかい営業になるかだろうし、彼らの進路は容易に想像ができるんですよ。

 一方で、ヒロインを含む女子たちのキャリアはまったくと言っていいほど思いうかばない。この時期の女子は、よっぽど強い意志をもって勉強と進路へ時間を全振りしないと、フワッとしながらも根強く消えない社会通念にからめとられてしまうことが、まったく意識されていない。この映画のエンディングの先に、残された2人の行く末を想定するなら、ヤンキー女子は地元でスナックのママ、主人公は実家住みの家事手伝いでしょうね。なぜなら、女子高生を題材にする作り手の感覚が、女性を「永久不老の処女」か「幸福なお嫁さん」に留めおく無意識の力学として働いているからです。オトコに逃げられたり、トシとったらのうなってまう「しあわせ」なんかに、青春を全振りしとったらアカンで! 恋愛に発情して頬を染めるヒマがあるんやったら、おどれの進路を見さだめて1日キッチリ12時間は勉強せんかい、このダボが! ついつい激昂してしまいましたが、本作の女子たちに向けた「良い大人」からのアドバイスは、以上になります。

 あと、日々の仕事に疲れはてたハイキャリア女性が、「娘にはしあわせになってほしい」みたいなボンヤリとした感じで、子どものスペックに見あわない人生の選択をほとんどネグレクト的に看過する生々しい雰囲気は本作の全編にわたってただよっていて、背筋がうすら寒くなりました。それと、仮にAIのシオンが受肉して不死性を失ったら、地下アイドルかキャバクラ嬢になって、ファンや客の怨恨かウッカリ事故で早死にすると思いました。

ゲーム「原神4章5幕・罪人の円舞曲」感想

 原神4章を最終幕までクリア。言わば、「原爆投下1日前のヒロシマ」を旅人とパイモンがそぞろ歩くシーンでの、モブによる「明日おなじものを食べられないとしても、今日はおなじものを食べる。それが生活ってものでしょ?」というセリフに、またしても号泣させられてしまいました。いつも感心してしまうのは、大所高所から語られるストーリーに対置された、こういった市井の一市民による素朴な感情を細やかに描いている点であり、「今日の食事」という極小の視点から百年を優に越える極大の時間ギミックへとカメラを引き上げる際の落差は、前者の連続で後者が成り立っていることにハッとした気づきを与えてくれます。そして、真の神が人間を愛するようになるまでの数百年を、一介の個人が偽りの神としてウソと演技による「時間かせぎ」をする苦悩は、いかばかりだったでしょう。いつ終わるかさえ知らされていないその苦しみを、異邦人へとすべてうちあけて楽になるチャンスを目の前にしながら、「利己的になってはダメだ、もう少しだけ考えよう……」とすんでのところでふみとどまる場面には、我が身に照らしての嗚咽がほとばしりでました。

 このフリーナというキャラクターのことは、登場した最初の瞬間から「軽薄で底の割れた演技者」として、どこか好きになれない気持ちがありました。「原神にしては、魅力に欠ける造形を持ってきたものだな」などと冷めた視点でずっとながめていたのに、その感覚の正体が同族嫌悪や自己嫌悪と同じ種類のものだったと判明したときの衝撃たるや! 私自身が「身の丈よりも大きなもの」を日々、演じることを強いられており、「すべて投げだして、終わりにしたい」という欲求と毎秒をせめぎあって生きているのですから! メインストーリーが幕を閉じ、彼女の後日譚ーー「僕はもう、二度とだれかを演じるつもりはない」ーーが終わる頃には、フリーナのことを心から愛おしいと思うようになっていました。個人を翻弄する大きな物語の渦中に落としこまれた小さなキャラクターたちが、それでもどうにか生きようとあがく様は、なんと彼らを魅力的に見せることでしょうか。いつの時点からか、キャラクターが物語のサイズを凌駕してしまうようになった本邦のフィクション群の失ってしまったものを、原神はいまだに脈々と受け継いでいるのです。

 どこか洗練されていない部分や、強引な展開、つたない手つきがまったくないとは申しません。けれど、いまを生きるだれかの熱を帯びたドラマツルギーが、すべてを「是」「好」へと変じていくのです。原神4章の最終幕を通じて、中華の若い世代が語る「旧エヴァ劇場版の先の先」を確かに見届けさせてもらった気分になりました。あなたたちは、「旧劇の最終局面で碇シンジが取るべきだった行動」と「新劇による再話で選ばれるべきだった結末」を、このように考えたのですね。先日、地球外少年少女の感想を再掲したところ、監督本人にRTされてビックリしましたが、彼の元へも土地と世代を超えたアンサーが届くことを願っています。いつものごとく、「アカの手先」となってベタ褒めしてしまいましたが、まあ、ロシア相当の組織の構成員たちが急に好意的な様子で描写されはじめたり、不安を感じる部分もなくはないんですよ。

 オマージュをわずかに越えたド直球の引用もチラホラ見えてきて、「第三降臨者」なるワードもすごく旧エヴァっぽいなーと感じます。今回、公子の師匠としてスカークなる人物が登場したのですが、FGOのスカサハと設定や見た目ばかりか声優まで同じ(!)になってて、「ああ、メッチャ好きなんやろうな……」と、思わず生あたたかい視線を送ってしまいました(「呑星の鯨」から剥離した物質のフレイバーテキスト、メッチャ好きです)。ともあれ、原神4章の最終幕を通じて、本邦のフィクションを弱くしているのは、家族を解体する「毒親」や 「親ガチャ」なる概念と、大きな物語を一個のキャラクターに矮小化する「VTuber」なる存在であることを確信いたしました(ぐるぐる目で)。みんな、そんなつまらないマガイモノは窓から投げ捨てて、中華ファンタジーから「物語の王道」を逆輸入していこうぜ!

 最後にぜんぜん話は変わりますけど、遅ればせながら劇光仮面の4巻を読んだんですよ。えー、「本物が現れ」ちゃダメじゃん! そんなのいつも通りじゃん! 本物がいない世界だからこそ、例えば「ゆきゆきて神軍」のような文学性や批評性を帯びていたのに! 本作へ向けていた興味関心の熱が、一気に冷めてしまったことは、残念ながら認めざるをえません。本物がいない日常だからこそ、我々はなんとかしてその虚無をやりすごそうと、もがき苦しむというのに……。