猫を起こさないように
モンスターハンター
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ゲーム「モンスターハンター・ワイルズ(HR100まで)」感想

 ゲーム「モンスターハンター・ワイルズ(下位クリアまで)」感想

 モンスターハンター・ワイルズ、ハンターランク100を達成。やっぱさあ、このゲーム、ボリューム足りてないんじゃないの(暴言)? より正確に表現すれば、ボリュームはあるんだけど、その見せ方に工夫が存在せず、「ロスの大邸宅の100畳あるエントランスの片隅に置いたコタツへ4人で座って、ホールのショートケーキのイチゴだけを食べる」みたいな行為を強要されている感じと例えれば、伝わる人には伝わるかもしれません。天候の変化、季節の移り変わり、モンスターや小動物の生態、NPCの細かな挙動やかけあいなど、世界の隅々までていねいに作りこんであるのに、それに気づかせる動線が少しも存在せず、狩り以外の遊ばせ方は皆無なのです。装備にしたところで、1つの武器種と汎用の一式を作りさえすれば、ハンターランク100まで攻略にわずかの支障も生じず、下位もふくめて膨大な数を用意された防具群に、重ね着で使う以外の役割がほぼ与えられていません。もはや、「シリーズの伝統」とひらきなおっているのかもしれませんが、オープンワールドという新たな舞台で、歴代の死に要素をゲーム的に復活させるアイデアは、検討されなかったのでしょうか(ダルくはなるけど、ホットドリンク等に類する極限環境へ対応する性能を追加するとか)。ファイナルファンタジー16の感想にも似たようなことを書きましたけれど、「5年かけて冒険の舞台をじっくりと作成し、残りの1年でいつものアクションをそこにどうなじませるか試行錯誤した結果、最後の最後ですべての施策を断念した」に類する顛末があったように思えてならない仕上がりなのです。現在のところ、武器ガチャと鎧玉あつめーー重鎧玉の価格が5000ポイントで、歴戦個体の素材売却が1個90ポイントなの、気がくるってません?ーーがエンドコンテンツなのですが、多種多様なモンスターとまんべんなく戦うより、デカくて動きの派手なわりにとても弱い、歴戦アルシュベルドをたおし続けることが、そのための最適解になってしまっていることは、本作の大きな問題点と言えるでしょう。美味しんぼで例えるなら、キロ数十万円のマグロの大トロを串であぶったものに塩をふって食べたあと、残りをどうするのか聞いたら、「捨てます。最上の部位を味わったあとでは、つまらぬものです」と返答されたときの若旦那みたいな顔になります。幼稚園児が中学生に、中学生が大学生になるような長い時間をかけて、コロナに耐え戦争をむかえ世界の混乱を横目にしながら、毎日コツコツと制作してきた成果物をぜんぶ台無しにするこの最終調整にいったい満足しているのか、制作チームの構成員ひとりひとりに聞いてみたいぐらいです。

 ゲーム全体への愚痴はこのぐらいにして、アクション部分についても上位の感想を述べておきますと、愛武器ーー愛犬ぐらいの意ーーである大剣の新ギミックをひととおり試しましたが、相殺とジャスガはソロorシラフ専用として、ボタンひとつでくりだせる集中モード貫通斬りが、まー、アホみたいに強い。強溜め斬りと貫通斬りのループでモンスターの傷口はひらきっぱなしになり、まるでプロレスみたいにドッタンバッタンひるみまくって、延々とこちらの攻撃ターンが続いていくのです。ウィキの最強装備を鵜呑みにして、「攻めの守勢」をスキル構成に入れて、チンタラ鍔迫り合いなんかねらってる連中には、「おまえら大剣のこと、なーんもわかってねえな」と、ここに吐き捨てておきましょう。モンスターの大技を2度のタックルでいなし、真・溜め斬りで敵のふところにとびこんだら、あとは強溜め斬りとワンプッシュおてがる連撃であるところの貫通斬りを交互にくりかえせば、エターナルフォースなんとかで相手は死ぬ(溜め段階によるダメージ上昇分が、そのまま貫通斬りにも乗っているようで、なにやらバグくさい挙動ではあるのですが……)。近年のモンハンでは、マルチプレイでギスらないために、本来ならリザルト画面にあるべき「累積ダメージ最大」の称号がオミットされているのですが、ワイルズにおいては多くのクエストで大剣がそれを達成していることに、もはやなんの疑いもありません(真顔)。まあ、モンスターの体力と攻撃力メガ盛りのマスターランクが解放されれば、通用しなくなるだろう戦法なこともうっすらわかっており、「どうせいまやりこんでも、ぜんぶムダになるしな……」という冷めた気持ちが常に頭の片隅にあるのは、G級商法の功罪の最たるものだと、最後に指摘しておきましょう。あと、歴戦ゴア・マガラだけが、アラカン・ロートル・プロレスラーの群れにひとり混じった、きわめて殺意の高いハタチの総合格闘家になっていて、小鳥猊下はモンスターハンターe-sportsを、ぜったいにゆるしません。

ゲーム「モンスターハンター・ワイルズ(下位クリアまで)」感想

 モンスターハンター・ワイルズ、発売日から有給をとって週末ぶっとおしの70時間プレイでハンターランクを100にしておきながら、「ボリュームが少ない!」などとほざく他責思考の貪食イナゴを横目に、1日2時間の優雅な貴族プレイでたっぷり1週間ほどかけて下位をクリアして、いちおうのエンディングを見たところである(悪文)。以下のテキストを記述するのは、本シリーズを右スティックで攻撃していた無印の初代からずっとプレイし続けてきており、PS2版のドスーー「まあ、自然は厳しいってことで(笑)」ーーが最高傑作であると信じて疑わない、とりあえず大剣1本で全クリしてから他の武器種に食指を動かすぐらいの、ただの人間ーー北斗の拳での用法ーーである。まずはじめに指摘しておくと、人気アクションゲームのシリーズ続編がかかえる避けがたい宿命とは、「前作の完成度がどれほど高かろうとも、”必ず”新システムを導入しなければならないこと」だろう。ワイルズにおいては「集中モード」がそれにあたり、「機動力を犠牲に、部位破壊がしやすくなる」という、思わず制作側の心中をお察ししたくなる、多くの武器種にとって恩恵の少ない、微妙きわまるシステムなのだが、大剣だけはちがう。なんと、このモードにおいては、溜め中に左スティック1本で自ハンターをカメラごと360度回転させることができるのである! これがなにを意味するかと言えば、ワールドから導入された大剣使いのリーサル・ウェポン「真・溜め斬り」の命中率が、発動後の縦回転中にも大きく軌道修正が効くこととあいまって飛躍的に向上し、30%ぐらいししかなかった敵弱点へのヒットが、体感で80%を超えるまでに上昇することとなったのだ。すなわち、とっくに眼前からターゲットが消えているのに、手淫でいきむかのごとく宙空へ精を放出したあのむなしい日々は、ついに過去のものとなったのである。新参者のチャージアックスやガンランスがダメージ効率をブイブイゆわせながら、「マジっすか、大剣っすか、パネェ(笑)」と揶揄してくるのを、「まあ、古参の懐古趣味だから……」とあいまいに微苦笑していた時代は終わり、ワイルズにおいて大剣はいっきに最強武器種の一角へとおどりでたのだった(新システムに強く依存した強化なので、次回作でまた大幅に弱体化することが見えているのは、悲しいが……)。

 また、登場するモンスターたちは全般的に、もうタイトルもよく思いだせない、けったくそわるい前作のモンスターハンターe-sports?における中年プレイヤーからのブーイングが作り手の猛省をうながしたのだろう、どれだけ派手な動きとエフェクトに見えても、プレイヤーの「攻撃ターン」と「防御ターン」がキチンと分けて用意されており、従来のモンハンのゲーム性へと回帰しているように感じられた。これはつまり反射神経だのみではなく、過去作の経験を生かせるということであり、下位クリアまでの死亡回数は、泥酔時に氷の巨大モンスター(名前失念)からカメラで轢き殺された1回のみだった。ただ、多くのファンからの高い期待を宿題としてしまった「なにがなんでも、本作をオープンワールドにする」という裏テーマは、必ずしも成功しているとは言えない。モンハンの楽しさのひとつに、「モンスターとの鬼ごっこ」があると思うが、本作のマップは広大かつ高低差に富んでおり、さらに移動できる地形が特定の法則に従って整備されているというよりは、作り手の恣意によって設定してあり、手動操作でモンスターを追いかけることは、ほぼ不可能になっている。おそらく、試行錯誤の末にたどりついた苦肉の策だろうと理解はするが、騎乗によるオート追尾をデフォルトの移動手段にせざるをえなくなったことで、「モンスターとの鬼ごっこ」と「オープンワールドの広がり」という2つのアドバンテージを消滅させる結果となってしまった(いまは上位クエストを進行中だが、「オープンワールドの探索”も”できる」ぐらいの、莫大な手間と時間ーーろぉぉくぅぅねぇぇんん!ーーをかけたにもかかわらず、付随的な要素にとどまっている)。本当は「採集でリソース管理しながら、痕跡を追いかけてモンスターを発見し、次々と狩りを続ける継戦の楽しさ」のような、シリーズを重ねるにつれて強まっていくアクション要素から、初代が指向したハンティングへと先祖がえりする、新たなゲーム性を模索するつもりだったのが、途中でディレクターが怖くなってしまい、いつものクエスト受注方式に戻したとしか思えないチグハグさが、ゲーム全体にどこかただよっている。制作途中で「オープンワールドの広大さと自由度の高さは、近年のモンハンのゲーム性と食いあわせが悪い」と気づかなかったはずはなく、すでに大勢のファンを持つシリーズものの続編へ、新味を加えることの難しさを物語っているとは言えるかもしれない。

 さて、ここからはトーンを変えて、ストーリー・パートについてふれていきましょう。今回のメインシナリオはオート移動を中心として、オープンワールドをなぜかベルトコンベアーな一本道で語る形式になっており、他プレイヤーと共闘する場面はほとんどありません。まるで、大型バスで行く観光地めぐりのような感じで様々なロケーションをめぐるのですが、自分の足で歩かないのでマップの印象はほとんど記憶に残らない。なのに、「(土地の固有名詞)の(知らない人物)と話せ」みたいなミッションが唐突に挿入され、言葉の通じない異国の地でツアーガイドが、「ここからは、各自でフリー・ショッピングをお楽しみくださぁい」と告げてから、こつぜんと姿を消すような恐怖をたびたび味わうハメになるのです。部族の村を熊のモンスターが襲撃するぐらいまでは、ていねいな世界観の提示があり、非常に好印象だったのですが、ストーリーを進めるにつれて、生態系などの説明もないまま障害物的に新規モンスターが投入される展開が続き、「これだけ作りこんでいるのに、出し方がもったいないなー」と思いました。イビルジョーになぞらえられたワールドの「(生理的に)ウケツケ”ナイ”ジョー」への反省からでしょう、本作では白メガネ学者娘と黒ギャル鍛冶屋にヒロインの要素を分割してきたことと、キャラクリ画面そのまんまの主人公が主体的にセリフをしゃべって物事を進めるのは、ベターになった要素としてみとめておきましょう(えらそう)。カプコンの真骨頂は、いずれのゲームでもアクション部分なので、文芸面に過度な期待をしてはいけないとわかっているのですが、「多様性」やら「モノ作り」やら「環境問題」やら、モンハン世界と水油の現代的な概念を、なんの変換もなしにチョクでつっこんでくる雑さには、思わず半笑いになりました。ストーリー展開としては、褐色の少年が白い竜を見て、唐突に感情的になりだすあたりから雲ゆきがあやしくなり、白メガネ学者娘がハンターの討伐した「護竜と書いて、ノー・ルビでガーディアン(笑)と読む」の死体を見て、「生殖器が退化してる」みたいなことを言いだしたときには、「ハァ? それって、ちんちんが小さいってことですかぁ?」と夜中に大きめの声でさけんでしまいました(階段をかけあがる荒々しい家人の足音)。

 エンディングは、生殖能力を持たない人造の生命が卵を生んだーー1頭でどうやって? 単為生殖ってこと?ーーことを「ちょっといい話」みたいにして終わるのですが、人工知能全盛の時代にクローン羊のドリーを彷彿とさせる生命倫理の話をいまさらやるのって、致命的に感覚が古くないですかねえ。「あの竜がそうしたように、ぼくたちも守り人の伝統から自由になっていい」というタワゴトも、どこかの同人誌にも書きましたけれど、地方の旧家から都会へ放逐された次男坊とその子どもたちぐらいまでをしか慰撫しないヨタ話で、いまや各地の伝統やら旧家の家督やらは人口減少で自壊しつつあり、人の生き方になんの拘束力も持たないどころか、むしろ若い世代にとって羨望して回帰することをのぞむ場所にさえ、なっていると思うんですよ。ワイルズのシナリオには、Qアンノが昭和の虚構に横溢していた「左翼的なるもの」や「全共闘的なるもの」をカッコいい概念として、自作の中で頻繁にとりあげるのと同じ手つきを感じましたねー(元の概念が、脱臭・脱色されているところまで同じ)。現代において、我々より下の世代が苦しんでいるのは、「家名もなく、束縛もなく、宗教もなく、信条もなく、目的もない」という”生きることの虚無”と”無重力に浮揚する魂”の問題だと思うので、アラフィフぐらいであろうこのライターは、平成初期の虚構から引用したテーマを手クセでまとめるのをそろそろ止めて、令和という時代について本気で思考を深めてほしいところです。え、「もはやモンハンとなんの関係ありませんね、それ」だと? バカモノ! この無軌道さが、(例の芸人のトーンで)ワイルズだろぉ?

 ゲーム「モンスターハンター・ワイルズ(HR100まで)」感想

映画「ター」感想

 ケイト・ブランシェット引退の報を聞きつけ、急遽ターの円盤を購入して見る。酷薄なコーケイジャン女性の顔面が大好きなことは、もはや認めざるをえないでしょう。ブルージャスミンで証明されたように、彼女は見事な「人格憑依型」の俳優であり、本作においても監督の考える「ぼくのせかいさいきょうしきしゃ」を完璧に演じてみせました。映画の冒頭からシアター、レストラン、階段教室と、一流の手品師がトリックを見破られない自信があるときのように、アンチョコもプロンプターも存在しないことを示すためのステージと長回しの撮影から、クラシック音楽にまつわる難解な長広舌がマシンガンのごとくとびだしてきます。才能にあふれた美形をしか愛せないレズビアン、愛情と愛着の区別がわからない冷徹な人非人、他者の感情と人生までをコントロールできると信ずるその傲慢さによって、虫ケラと断じて切り捨てたはずのつまらない存在たちに逆襲され、ついには王位を剥奪されてしまう。音への過敏にはじまる不眠と神経症から、首席指揮者としての自我に亀裂が生じ、そこから坂道を転がり落ちるように壊れていく様は、ケイト・ブランシェットでなくては成立しえない圧巻の演技だと言えましょう。特に、プエルトリカン学生の「進歩的な態度」を粉々に打ち砕くために行った「あらゆる価値判断を放擲し、楽譜に従属する奴隷として、魂さえ捨てた空の器たれ」という講義は、最近の私の気分にぴったりと当てはまるものでもありました。

 本作をして、女性やLGBTQ差別への批判を読む向きもあるようですが、まったくそれには同意できません。むしろ極めて深刻なのは、漏斗状に上から下へと濃縮していく人種差別の構造であり、おそらく監督自身がそれに無自覚である点でしょう。降板させられた主人公がコンサート会場に現れ、演奏中の男性指揮者へ殴りかかるシーンで終わればよかったものを、そこから大蛇足の30分を追加したために、クラシックの歴史と業界の現在に対する批判へと内容に強いエッジがかかってしまったことが、それへ拍車をかけています。ベルフィンフィルを追い出されたあと、放浪の末に中国人のパトロンを見つけ、最後はモンハンのコスプレをした観客が会場を埋める中で、アジア人のオケを相手になんと「英雄の証」の指揮をするところで物語は幕となります。これは、「白人男性によって築かれたクラシック音楽はカビの生えた古典となって死に瀕しており、いまやアジア人のゲーム音楽にこの分野の新たな萌芽がある」という無邪気な批判のつもりなのでしょうが、以前にグラン・トリノで指摘したものと同じ「西洋的な差別意識の類型」を露わにしているのです。すなわち青い目の視界の外、石の文明の埒外で、もっとも取るにたらぬと侮蔑していた存在が偉大な欧州文化の精髄を継承するがゆえの衝撃であり、「差別構造の最下層にいるアジア人」が対偶に存在しなければ、最大級に痛烈な批判としての機能をこの結末が持たないことが、我々にとっての大問題なのです。逆ピラミッドの最上部にいる白人男性から、白人女性、中南米男性、中南米女性、黒人男性、黒人女性と順に階位が下がってゆき、その「人種漏斗」のいちばん細くなった部分から濃縮されて垂れ流れているのがモンゴロイドへの差別意識であり、この映画の体現する侮辱に対して我々は怒らねばなりません。

 本作は、ケイト・ブランシェットのファンがケイト・ブランシェット最後の演技を愛でるために見るのでなければ、まったく1ミリもおススメできません。全面協力したベルリンフィルは、たいそうなババを引かされたものですね。ああ、最後の30分さえなかったらなあ! 白人至上主義者がアジア人差別を無自覚に利用した、けったくそわるいクソ映画で引退を表明させられるなんて、ケイトがかわいそうだ!