猫を起こさないように
ミスタービーン
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劇映画「孤独のグルメ」感想

 劇場版「孤独のグルメ」を見てきました。以下は原作漫画のファンで、シーズン1をリアルタイムで視聴し、以後はつかず離れず断続的に、”ながら見”してきた程度の人物による感想です。”劇”映画なる珍奇の接頭辞が示すように、本作は演劇や戯曲の場面を連続させたものになっていて、構成としては映画の体(てい)を為していると言えません。まず最初に強く感じたのは、井之頭五郎は「ひとりを好む中年男の、定食屋での独り言」というフォーマットによって成立しているキャラクターだということで、視聴中はミスター・ビーンのハリウッド映画版が、なんども脳裏にオーバーラップしました。ビーンという愛すべきキャラクターが、ひとつながりのストーリーで他者との関係性の中に落としこまれると、発達の特性が目だちすぎて、ただ頭がおかしいだけの異常者にしか見えなくなってしまったアレです。ストーリーを順に追っていきますと、フランスでの最初の食事シーンから感じたことですが、今回の井之頭五郎は一度に口に入れる食べ物の量が多すぎ、テレビ版に比べると食べ方が汚いように思います。あれだけエッフェル塔の写真で宣伝しておきながら、舞台としてはほぼタイトルコールまでで、タクシーを降りてからの追加撮影とおぼしきシーンが、非常に背景合成ぽいのも気になりました。

 そして、人との積極的な関わりや無謀な冒険を避けるテレビ版の彼ではありえない行動である、スタンディングボードで海へとこぎだすところから物語への違和感は強まり、台風にまきこまれて救命胴着の浮力のみで五島列島から韓国の離島まで一晩で漂着した時点で、これは映画ではなく演劇の場面転換なんだと、むりやり自分を納得させました。名刺と一万円札がはさまれたクリアファイルを映すことで暴風域の遷移を表現する演出は、かつての映画青年を思わせるナイーブさでしたし、毒キノコを食べて白い泡を吹きながら痙攣するのは、昭和のコメディ文法になっていて、令和の感覚に照らすとギョッとするばかりで、ちっとも笑えません。そのあとに目覚めた独房様の地下室でハングルを耳にして、「韓国だったらいいけど」と北朝鮮による拉致をにおわせるブラックジョークも、本シリーズのまとってきた上質な品性からは、大きく外れているように感じました。「孤独のグルメ」は韓国でも人気があるようですが、ファンとおぼしき女優たちによる衆人環視の中で料理を完食して、たがいにガッツポーズで大喜びする場面は現実と虚構の間にある壁が完全に壊れていましたし、同国の有名俳優がカメオと呼ぶにはあまりにガッツリと出演するのも、どこに向けてボールを投げているのか首をかしげました。

 伊丹十三作品のオマージュだろう、タンポポのロゴをかかげるラーメン屋の店主にスープを作ってもらうまでの流れも、登場人物たちの心の動きに説得力がなく、戯曲的な表面上のチェーン・リアクションによってストーリーが動かされているようで、どことなく座りの悪いものでした。「孤高のグルメ」なる劇中劇ーー直前に「首」を見ていたせいで、「血濡れまんじゅう男色ディープキス」と印象が混線して、たいへんでしたーーによるメタ要素は、まあ、ご愛嬌としてスルーしたとしても、エンドロール後に井之頭五郎ではなく、松重豊本人が観客に向かって「ハラ減ったでしょ!」と語りかけて、「第四の壁」を越えてくるのは、さすがにやりすぎではないでしょうか。全体的に、10年をかけて「孤独のグルメ」を紅白歌合戦の裏番組にぶつけるまでのコンテンツに成長させた、文字通りの立役者である松重豊に功労賞として、昔からの演劇仲間を集めて好き勝手にやるのを、テレビ東京が黙認しているような中身になってしまっています。

 しかしながら、テレビ版のファンである我々ダンベエたちは、こんなふうに重箱の隅をつついた批判の言葉をネットへと書きこむのではなく、さらなるシリーズの継続を祈願しながら、還暦俳優のスキニー・パンツに笑顔で二千円をつっこんで帰ってくるのが、正しいファンの態度だと言えるでしょう。長々と”いやごと”ばかりを書きましたが、本作はまごうことなき「10年目のお祭り」であり、完成度の高い祭りなんて存在しないのですから、どんどん劇場でリピートして、ドシドシ興行収入をあげていきましょう(手遅れ)!

映画「ヒトvsハチ」感想

 ネトフリでローワン・アトキンソンのヒトvsハチ、見る。キリスト、ビートルズに続き、その誕生以来、年齢・性別・人種・国籍・言語を超えて、ネット動画の誇大タイトルどころではない、文字通り「全人類を楽しませた」のがMr.ビーンであり、本作は言わば、そのスーパースターのカムバック公演なのだ。「ビルドアップがダルいな」とか、「話のオチが小賢しい気がする」とか、「10分9本じゃなくて90分1本でいいんじゃねえの」とか感想未満の印象を述べるのは、それこそ「キリストが異性愛者なので傷つきました」ぐらいの難クセであり、まさに抱腹絶倒、ひさしぶりに涙が出るほど笑わせてもらった。オックスフォード出身の英才が演じる、このビーン型のキャラクターは、現代においてたぶん正式な診断名(アスペルガー?)がつく特性の持ち主で、いったんひとつのこだわりが生じると、他のすべてが見えなくなってしまう。グッタリした犬を床に放り投げて「ゴトッ」と音がする場面などに狂笑しながら、やがて自分の内側にも同じ性質が潜んでいることに気づかされるのである。

 休日の朝、ディアブロ・イモータルのプレイに本腰を入れて取りかかるも、2時間もしないうちに、もうゲーム内ですることがない。デイリーでクエストを規定数こなし、ウィークリーで1、2回レジェンダリー宝石のガチャを引く。パラゴンレベルは毎日2ほど上がるから、進捗の感触がないわけではないし、はるか遠方にうっすら目的地も見えている。けれど、それは日本列島を徒歩にて縦断するような道程であり、しかも重課金者は初日にプライベートジェットでゴールを済ませているのだ。エンドゲームの全容が俯瞰できてしまったあと、ディアブロ・イモータルのために予定をすべて空けた休日が残された。そこで、「そういえば、艦これのイベント海域を3の3で放置してたな……」と思い出してしまったのが運の尽き。ゲージを破壊できず、友軍の到着を待っていたくせに、「支援艦隊と基地航空がキチンと仕事をして」「通称・ながもんタッチが敵旗艦に当たって」「夜戦までに4隻以上が中大破を逃れ」「魚雷すべてが敵旗艦にクリティカルする」という奇跡を、なぜ一瞬でも信じることができたのか。頭ではわかっているのに、いったん着手するともう身をもぎ離すことができない。

 連合艦隊の全隻が幾度も中大破で帰港し、数週間をかけて再備蓄したバケツと資源がおそろしい勢いで虚空に消滅していく。攻略情報を検索して見かけるクリア報告に、得体のしれぬ焦燥が高まっていく。これはおそらく、独身女性が友人から結婚や出産のハガキを受け取るときと同じ感情だ。「たかがゲームなのに、みんなふつうにこなしているのに、なんで私はちゃんとできないんだろう!」という己への失望と、世界への絶望。イベント海域のプレイ中には、私の人格の中で最も低劣な部分が表層へと浮かびあがる。激情、狂乱、絶叫のうちに、バック・グラウンド・ビジュアルとしてパリピ孔明を見終え、ヒトvsハチの配信に気づいて、乱暴に再生をはじめる。はたして、そこには、私がいた。

 自然とマウスから手が離れ、私が私の痴態を笑っているうちに、全身を包んでいた怖いような執着は、いつの間にか消えていた。艦これを走らせていたブラウザを終了しながら、私はこうつぶやく。ありがとう、ローワン・アトキンソン。狭量な時代がこの作品に何を言おうと、あなたは私にとって、永遠のジーザス・クライスト・スーパースターだ。