猫を起こさないように
ジークアクス
ジークアクス

アニメ「機動戦士Zガンダム」感想

 ジークアックスによるファースト・ガンダム特需を横目に、機動戦士Zガンダムを人生ではじめて通しで見る。まず結論から言えば、わたくし個人のかかえる「ガンダムが苦手で、単位が出ない」理由を、極限にまで煮つめたような作品でした。この唐突な奇行の裏事情ですが、週2くらいでチマチマ進めているドラクエ10オフラインにおける最強アクセサリであるところの、「再行動10.5%・アクセルギア」をパーティの人数分用意するため、キラーマジンガと56回ほど戦わなくてはならなくなったからです。ながら見で視聴すると、セリフとセリフのかけあいがまったくつながって聞こえない瞬間がかなりあり、最初のうちは一時停止からまきもどして聞きなおしたりしていたのですが、早々に「ガンダムって、そういうもの」とあきらめました。正直なところ、序盤の展開はひどく退屈で、ドラクエ10オフラインがなければ、アムロが登場するまでに視聴を脱落していたにちがいありません。シャアが「昔の名前で出ている」ことはうっすら知っていましたが、7年後?のホワイトベースの面々がガッツリと描写され、本作が「初代の正統なる続編」だったのには、新鮮な驚きがありました。無印がア・バオア・クーを旅の終着と見たてた縦方向の「ゆきて帰りし物語」とするなら、ゼータは「ガンダム世界の設定の、横方向への拡張」をかなり意識的にやっているイメージで、35年越しでようやくみなさんに理解が追いついたというわけです(幼いハサウェイが出てきたのには、のけぞりました)。恥ずかしながら、本作を見るまではガンダム世界について、宇宙戦艦ヤマトやスタートレックのような、銀河規模の話ーー「木星帰り」とか言ってるしーーなのだと、カンちがいをしておりました。光年単位のワープ航法が存在せず、あくまで地球と月軌道の範囲で起こる戦争だからこそ、資源の枯渇や大地の汚染がテーマの中心になるのだと、ようやく気づかされた次第です。

 しかし、「トミノ節」というのでしょうか、登場人物の心理描写は前作からいっそう独特さを増しており、大人たちは喜怒哀楽でいうところの「怒り」と「哀しみ」をしか発露しない。この世界で「喜び」と「楽しさ」を表現することをゆるされているのは、子どもたちだけなのです。もうひとつのポイントは「不機嫌」で、登場する大人たちの全員が胸中に「不機嫌になるトリガー」を持っているようなのですが、その正体がなんなのか、外野から見ているぶんにはサッパリわかりません。おまけに、令和の視点ではギョッとするほど頻繁かつ安易に、男女の別なくグーかパーで他人の顔をはりたおしーー修正? 修正って?--まくります。「キャラクター全員が、太平洋戦争帰りのPTSDを心中にかかえている」というのがもっとも合理的な説明のような気がしますが、やっかいなファンを多くかかえる、この歴史ある巨大シリーズ相手に、めったなことは申しますまい(言ってる)。ただ、登場するすべての女性キャラが男性の妄想をコピーした人形ではなく、少々のエキセントリックさはあるものの、それぞれ確固たる人格を与えられ、近年に顕著な「男性性を我がモノとして取りこんだ、頭文字エフ」とは大きく異なった”女性”として、所与の状況に向けて自らの意志をもって行動する様子は、不思議な感動を呼びおこしました。戦中戦後に幼少期を過ごされた禿頭の御大は、社会に充満していた無意識の抑圧から、決してお認めにはならないでしょうが、潜在的にかなりバイの要素をお持ちである気がします(「この哀れな魂が神のみもとに」というナレーションや、パプテマスという固有名詞には、キリスト教の洗礼を感じる)。また、「ここは託児所じゃないんだぞ」などのセリフから、ガンダムから旧エヴァが受けている影響もうっすら見えてきて、放送当時は唐突に思えた「男の戦い」というサブタイトルも、ガンダム世界の定義による”男”ーーくやしいけど、ぼくは男なんだなーーを意味していたのだと、ようやく腑に落ちました。

 全体的に雰囲気で聞いているセリフの中で、もっとも深く心に刺さったのは、ハヤト・コバヤシーーあの優しい少年が、ゲイルックの小太り暴力上官になっていたのは、本当にショックでしたーーがクワトロ大尉に伝えた、「あなたほどの人物が、現場で一兵卒をやっているべきではない。時間をかけても、組織のトップにまでのぼりつめてほしい」みたいな諫言でした。年齢と地位の上昇へ行動の変化を伴わせることは、じつのところ、かなり意識的にやらないとできないものです。「マネジメント層になったのに、言動はいつまでもどこまでも一兵卒」という態度は、典型的な”昭和の組織あるある”で、あさま山荘的な総括を恐れるあまり、組織の存続へ向けたオーダーではなく、かつての同僚に対する”おもねり”を優先してしまう、曲がった心性に由来しています。年齢を重ねて、以前と同じパフォーマンスを発揮できなくなったスポーツ選手が40歳、下手をすると50歳をむかえても現役を続行しようとする姿勢を、本邦のメディアはときに美徳のように語りますが、私はこれを明確に「逃げ」であり「醜い」と感じます。「体制に組みせず、管理側に就かず、生涯を一兵卒で終える」のは、身内による粛清をただただ恐れる、全共闘的な病理の保存に他ならないからです。ともあれ、Zガンダムの講義をすべて聴講ーー履修とは言わないーーしたいま、この観点から人生4度目の「逆襲のシャア」に挑戦してみるつもりでおります。

アニメ「機動戦士ガンダム・ジークアックス」感想

 ガンダムオタクがタイムラインでキャアキャア言っているジークアックス、頻繁にQアンノの名前が話題に出てくるため、親・イコール・エヴァを殺された者の責務としてイヤイヤ見に行く。これ以降は、蒼天航路で曹操が孔明の存在を認識できないように、世代的には再放送による人気の高まりとガンプラブームが幼少期をほぼ直撃していて、すべての講義に出席した上でノートもキチンとテイクするのに、ペーパー試験がいつも0点で未履修あつかいとなる、とことんガンダム世界と反りがあわない人物による感想です。映画の前半部分は、ファースト・ガンダムを正史にみたてた架空戦記モノになっていて、ネタバレ回避(笑)のためにあえて例え話で申しあげれば、「開戦からどんな展開をたどれば、太平洋戦争で日本がアメリカに勝てたのか?」に類する設問への解答が、日本三大オタクのひとりであるQアンノ本人によるノリノリの筆致でつづられてゆきます。このパート、群像劇としてもメカアクションとしても、じつにイキイキと描かれていて、ウノレトラマソでの新ウルトラマン、愛国戦隊大日本でのサンバルカン、トップをねらえ!での沖縄決戦、不思議の海のナディアでの宇宙戦艦ヤマトを彷彿とさせる、彼がおのれの愛する作品へのオマージュというにはディープすぎるトレースを敢行しているときと同じ喜びに満ちあふれていて、その様子が本当に心の底から楽しそうなので、どうしてこれをエヴァ新劇の後半戦でやってくれなかったのだと、視聴中はうらみごとのひとつも言いたい気分でした。「女グセの悪くない、むしろ男色よりのシャア」という、トミノ・エッセンスである異性への歪んだルサンチマンをバッサリ切り捨てたキャラクターが、地球連邦軍を相手に軽快な勝利を重ねていく様は、グッツグツに煮つまったガンダムオタクの脳内妄想をフルパワーで映像化していて、ガンダムという巨大シリーズに向けた、ある種の批評性にまでつきぬけているようにさえ感じられました。

 「御大が旅立ってから、シン・ガンダム」という小鳥猊下の予想はみごとに裏切られ、裏切られた理由は彼我の持つディーセンシーの圧差(カイジ語)だったわけですが、旧エヴァをリアルタイムで経験した世代にこの横紙破りの無法をできる人物がいるか考えてみたところ、ひとりたりとも思いつきません。つくづく感じたのは、近年における中韓のフィクションが本邦の過去作に受けた強い影響を正面から認めながらも、完全オリジナルのストーリーをゼロから描こうと苦闘しているのに対して、我が国では異世界転生モノやら悪役令嬢モノやら、まさに「過去の巨人の肩に乗って、遠くを見る」作品が隆盛をきわめていて、その期間が長くなりすぎた結果、おのれが依拠する歴史の遺産と呼ぶべき存在にすら、無自覚な層が現れてきてしまっているということです。つい先日、崩壊スターレイルのオンパロス編をサブクエスト含めて実装分まで読了したのですが、オリュンポス世界を舞台にした英雄譚とギリシャ悲劇を、おそらくシミュレーション仮説を下敷きに、古典文学のように語ろうとしているのです。その一方で、ジークアックスは半世紀前(!)のロボットアニメを正史にすえた偽史として、ディックの「高い城の男」をやろうとしているのではないかという指摘を見かけ、同じSFというジャンルにありながら、両者の間へ横たわる長大な発生の差異に、思わず強いめまいを覚えてしまいました。シンエヴァ由来の不快感が消えることは決してありませんが、ジークアックス前半におけるQアンノの仕事は、「自覚的なひらきなおり」によるザーメン大放出(失礼)になっていて、先に挙げた近年の軽薄な虚構群の中では、むしろ圧倒的に誠実だとすら感じてしまったことを告白しておきます。

 これが映画の後半になり、シンエヴァの副監督が手がけるパートへ突入すると作品テーマや思想性ばかりか、やっかいなオタクの情念までもがキレーさっぱり雲散霧消して、ソリッドなデザインやビビッドなカラーリングやケレン味たっぷりのアニメーションだけが前面に出てくるのは、いったいどういう作家性の違いによるものなのかわかりませんが、じつに不思議です。禿頭の御大に由来する成分が大幅に希釈されたジークアックスには、全体として「わからないけど、わかった」ような気にさせられており、もしかすると人生で初めて単位を修得できるガンダムになるような予感さえあるので、いまは続くテレビシリーズの放映開始を楽しみに待ちたいと思います。あと、公開初日の劇場で「ブチころがすぞ!」(婉曲表現)とスクリーンに向かって叫んで席を立ったオタクがいたと仄聞しましたが、ただの虚構に魂を沸騰させることのできるMAJ(マジ)モンが界隈にはたくさんいたことを、ひさしぶりに思いだしました。彼らに比べれば小鳥猊下なんてのは、「頭のおかしいフリ」をしているだけの、オタク濃度の薄い良識人ですからね! あの世代のモノホンたちを「怖いな……」と遠巻きに見てきた人生ですので、自身がだれかに「信頼できるオタク」などと呼ばれているのを目にするたび、師匠の落語家が偉大だっただけの下手クソな弟子を、単なる時間の経過でメディアがあたかも名人であるかのようにあつかいだすプロセスを想起して、なんだか申し訳ない気持ちになってきます。はやく現世から退場しねえかなあ、アイツら! そうすりゃ、オレをニセモノと見ぬけるヤツは、どこにもいなくなるのによ!