猫を起こさないように
アニメ「アン・シャーリー(1話)」感想
アニメ「アン・シャーリー(1話)」感想

アニメ「アン・シャーリー(1話)」感想

 エッキスのタイムラインが悪い意味で沸騰しているところの、国営放送のアン・シャーリー1話を見る。ご存知のように原作小説の周辺には、村岡訳に疑義を呈する英文科卒のおばさまたちをはじめとする、深海魚のごときファンが数多く潜伏しており、うかつなニュウビイたちが近づこうものなら、たちまち捕食されてしまう、男オタクにとってのファースト・ガンダムのような、じつに業の深い作品なのです。いまをさかのぼること半世紀、世界名作劇場における初のアニメ化が報じられると、やっかいな原作ファンによる反対運動がまきおこったものの、その騒ぎを高畑勲の演出による作品の真価だけで暴力的なまでに鎮圧したという逸話が、現代にも伝わってきておるほどです。この旧アニメ、制作中のエピソードもふるっていて、盟友たるハヤオの謀叛にも似た途中離脱や、大病をおしてまで作画を続けさせられたヨシフミや、彼の葬式ーーずっとあとのことです、為念ーーで「近ちゃんを殺したのは、高畑さんよね」と投げかけられたイサオがそっけなく「うん」と応じたなど、まさに歴史上の偉人たちがおのれの血と魂でもって錬金した珠玉の50話の存在を前にして、なお令和の御代に新作を上梓しようと考えたのが、蛮勇や無知によるものではないと証明されていくことを、1話視聴の段階からなかばあきらめつつも、せめて若いアニメファンたちがビートルズのように高畑版「赤毛のアン」を発見するためのきっかけになればと願っております。

 余談ながら、私にとっての高畑勲は、現実世界ではぜったいに遭遇したくない、正気と狂気のはざまを悠然と歩く真性の天才であり、奈良の片田舎に引きこもっていたおかげで、彼の死までに創作者としての姿勢へ総括を求める面罵を浴びる機会を持たなかったことへ、心の底からの安堵を感じている次第です。たびたび「演劇やアニメで革命を継続しようとした全共闘世代」を揶揄する発言を過去にくりかえしてきましたが、彼らの創作のほとんどが本当に手に入れたかったものーーたぶん、国家や体制の転覆など少しも望んではおらず、高給で召しかかえられる首相や首長の相談役みたいな立ち場ーーの代償行為、もっと言えば庇護者へする試し行為にすぎませんでした。高畑勲だけは、ちがいます。東京大学を卒業しながら、みずからの意志でアニメ制作を生涯の仕事として選びとり、「アルプスの少女ハイジ」「母をたずねて三千里」「赤毛のアン」「じゃりン子チエ」「火垂るの墓」と、「それが出現する以前と以降では、世界の見え方がまったく異なってしまい、それが存在しない世界をもうだれも想像できない」という真の革命を、作品の力だけで体現し続けてきたのです。全共闘世代の虚構従事者でフィクションを通じた社会の変革に成功したのは、高畑勲だけだと言っても過言ではないでしょう。

 しぶしぶプッシー(推し、の意)への礼賛から、国営放送のアン・シャーリーへと話を戻しますと、まずもって今回の再アニメ化によるいちばんの僥倖は、「やっかいなおばさまたちの、メンドくさい言説」をひさしぶりにタップリと摂取できたことでした。それらはほとんど彼女たちの生存報告であり、人がらや人生観までもが行間へとにじみだす、定型の賞賛か完全の無視しかない昨今のつぶやき群とは性質を異にした、重層的な”人生の言葉”だと表現できるでしょう。続きまして、イヤイヤ作品の内容についてふれていきますと、若い女性のキンキン声が耳にさわることをのぞけば、「原作の知識があるプリキュアの一員みたいなアンが高速リアル・タイム・アタックで、マリラとマシュウの籠絡をこれまでの115分から23分へと大幅に短縮した」みたいな楽しみ方ができないこともありません(やっかいな高畑ファン)。しかしながら、元祖・喪男であるマシュウをシュッとした見た目の長身イケオジにしたことで、彼が60歳まで独身であった理由について、「生まれながらの男色家である」か「妹と近親相姦の関係にある」の二択を視聴者に迫る結果となったことは、ゆるしがたい原作改変でしょう(やっかいな原作ファン)。

 本作はグリーン・ゲイブルズのアンを越えて、アヴォンリーのアンまでを描く構成だと聞きましたが、原作の翻訳は「アンの青春」の途中で脱落した個人的な経験から申せば、世界的な大ヒットとなった1作目だけが真の意味での文学作品になっていて、物語の運びや文章の技巧こそ高まっていくものの、それ以降はアンという人物を追いかける、ファン向けに売りだされたキャラクター小説にすぎません。「だれのためともなく書かれ、数年間を物置で過ごした草稿」という意味で、シリーズ第1作「アン・オブ・グリーン・ゲイブルズ」だけが「非現実の王国で」や「ダイヤモンドの功罪」と同じ性質をそなえていると言えるのです。泣きつかれて眠るアンのほおにはじめて口づけをし、屋根から転落して足首を折るアンの姿に胸のつぶれるマリラの心がわりの様子、「死と呼ばれる刈り入れ人」によって最愛のマシュウが神の御もとへと去り、アンは「人生は、もう二度と元にはもどらない」ことを知って、子どもから大人へと否応に、不可逆に成長してゆきます。そして、大きな無償の愛を得て正しく羽化した少女は、ついに「愛に飢えて彷徨する、寄る辺ない魂の遍歴」を終えることとなりました。そうなれば、もはや1個の大人として「なにがあろうと、なんとかひとりでやっていく」しかなく、孤独な少女の物語は物語として物語られる意味を失ってしまうのです。もしかすると、私に「アンの青春」の途中で本を閉じさせたのは、「この子は、このあともうなにがあっても大丈夫」という安堵の感覚だったのかもしれません。

 さらに無礼と審美眼の欠如を承知で付け加えれば、草木の描写と少女の長広舌による掌編を、時系列で数珠のようにつないでいく原作の語りは、100年以上前の小説技法を現在の目で断罪するつもりはありませんが、非常につたないものです。けれど、生涯を家族の介護とケアに費やしたモンゴメリが、みなの寝しずまった深夜に、だれのためでもない、おのれの魂だけを救うために、架空の少女に仮託した解放の夢として、毎日1話ずつを書いていったのだろうと想像するとき、胸の痛むような思いにさせられます(あら、でもいやな痛みってわけじゃないのよ)。いまや、このような物語のつむぎ方も、アンのように奔放な空想の広がりも、スマホやPCを媒介として我々の日々へ24時間を常駐するようになったインターネットによって、すべて発生をさまたげられているのにちがいありません。最後に、小鳥猊下がネットに記述するテキストのすべてについて、「押入れの草稿」として書いていることを、ゆめゆめお忘れなきよう諸賢へお願いし申し上げて、とりとめのない感想を閉じたいと思います。