猫を起こさないように
日: <span>2025年4月18日</span>
日: 2025年4月18日

ゲーム「崩壊スターレイル第4章・安眠の地の花海を歩いて」感想

 あらゆる形態のフィクションのうち、いまもっとも続きを待ちわびていると言っても過言ではない、崩壊スターレイルの最新バージョン3.2を8時間ほどかけて読了。更新のたびに膨大なテキストが追加され、以前にも指摘したとおり、プレイフィールは「もはやゲームというより小説」なのですが、やはり中華の物語は「時間」「家族」「死生」を書かせると”群抜き”(平井大橋語)で、定命と不死を対比しつつ、死の根絶の是非を問答しながら、「死が人の心に情熱をともし、そこから愛が生まれた」という結論へといたる筆致は切実さに満ちており、じつに見事なものでした。最近、赤毛のアンをおそらく数十年ぶりに読み返したのですが、おのれの視点が完全にマリラ側になっていたのには、長い時間の経過を実感させられました。そして、子どもというのは、孤児であるかどうかに関わらず、ある日、突然に日常へ出現するものです。赤毛のアンとは、孤独な兄妹が過ごした、不死のように変わらぬ40年の日々が、ひとりの子どもの出現によって、ひとつの死へむかって動きだす物語でもありました。アンがクイーン学院へと旅立った夜、マリラはベッドの中で号泣し、「神ではないものを、こんなにも愛していいのだろうか」と自問するさまを見て、なぜ百年以上を離れた異国の地の作家が、同じ感情を知っているのだろうと、泣けて泣けてしょうがありませんでした。ことさらに無感動をよそおった若き日々から、心中に生じた愛の深まりへおそれおののく人生の季節を越えて、その執着を彼方へと見えはじめた死に向けてどう解消してゆくのか、かつては宗教がその答えを持っていたはずですが、いまは大量の等価で無価な情報にとりまかれたまま、ただ茫然と立ちつくすほかはありません。

 モンゴメリを読み、それから崩スタや原神を読むとき、私の胸へと去来するのは「この半世紀というもの、我々はあまりに少女を性的に消費し続けてしまった」という悔恨にも似た感情です。「少女の見た目をした、死をつかさどる双子の半神」という設定を、本邦における現代の創作者たちがあずけられたとき、どんな内容の物語が上梓されるのかを想像しただけで、暗澹たる気持ちにさせられます。まちがいなく、たっぷりと性的な百合展開が大半を占め、最上のものでも萩尾望都のカーボンコピーがせいぜいでしょう。キャストリスなるキャラクターを中心として語られる今回のバージョンは、キャッチーにセクシャルなモデリングで萌えコションたちへ旺盛な課金をうながしながら、そのストーリーの内実は非常に骨太な「家族愛」と「死生観」の話になっているのです。余談ながら、たびたび話題に挙げるところの漫画喫茶と温泉の複合施設で、なぜかトリリオンゲームをぽつぽつ読んでいるのですが、お話し自体はかなり行きあたりばったりなのに、池上遼一の画がいちいちおもしろすぎて、”間が持って”しまうという不思議な漫画体験をさせていただいております。その劇中に、おそらくパズドラあたりを下敷きにしたアプリ制作編があり、課金にまつわる”オレ理論”が展開されているのですが、ホヨバのリリースした原神が覇権アプリと化す”以前”の話になっていて、ほんの数年でここまで市場をゲームチェンジできるものかと、ある種の感慨をいだきました。その勝利の理由は言葉にすれば、「オタクの”好き”に向けた純粋さに対して、常に誠実かつ真摯であり続ける」という一点を極限にまで突きつめたゆえで、近年のFGOが失いつつある種類の美点でもあります。

 崩壊スターレイルというアプリは、その人気のわりにストーリー・パートへの感想がほぼ見当たらないので、ファンの多くを占める若者たちは、シナリオは全スキップしながら、登場人物たちの魅力的なルックスと、よくできたプロモーション・ビデオと、作中の派手なムービーだけを消費しているのだろうと推測しております。しかしながら、このゲームの本質は膨大なテキストにこそあり、じっくりと読みこんでいくことで世界観に由来する玄妙な情緒が立ちあがって、大の大人の鑑賞へ充分に耐える中身になっているのです。今回の更新部分で驚かされたのは、手書きのアニメーションが突如として挿入されたことで、驚くと同時に思わずヒザを打ちました。アニメ指向の3Dモデルは、派手なアクションのムービーで輝きこそすれ、動きの少ないシーンでは人形めいてしまい、どこか繊細さに欠けるものです。制作者の意図するキャストリスの遍歴と感情のゆらぎを表現するのに、3Dモデルでは演出をつけきれないと考えたのでしょう。たとえつたなくとも、たとえ失敗したとしてさえ、「意志のあるチャレンジ」は、惰性による停滞から抜けだすためにとても重要で、「意志なき現状維持による不失敗と不成功」を再生産し続ける界隈(ドキッ)に棲息する諸氏におかれましては、この姿勢をぜひ見ならってほしいものです。本章のヒキとなるクリフハンガー部分では、いよいよオンパロスを管理する「ラプラスの魔」に相当する存在が姿を現し、この世界がシミュレーション仮説そのものなのかもしれないという疑惑は、いっそう深まりました。ペガーナの神々で言うところの「眠れる大神」を思わせるほのめかしをして、「次回、乞うご期待!」となったときには、「えー!」と思わず大きな声が出たほどです。

 それにつけても、ひとりのトップクリエイターがプログラムからシステムからシナリオからぜんぶやる、他者の人生を平気で数年ほど待機させて恥じない傲慢な本邦のゲーム群とは異なって、6週間を待てば必ず続きがリリースされるのだから、まったく中華のクリエイティブ商売は大したものじゃないですか。本邦のゲーム制作に従事する諸氏は、ユーザーへ徹底的に奉仕する、この「謙虚さと誠実さ」を見ならうべきじゃないですかね。最後に、小鳥猊下の作品から一節を引用して、本邦のクリエイティブ界隈へひそむ不遜な性根へのカウンターとしておきます。『考えれば、この”やめる”という選択肢を持たないものは、世の中にそれほど多くありませんよ。さっき言った政治と、なんだろうな、愛? いやいや、冗談です。文学も、音楽も、芸術も、すべて疑いなくやめることができます。やめても生活が続くものを批評するのは、意味がない。ゲームなんて、文学や音楽や芸術のうちの末席の、更に後ろのムシロ桟敷でしょう』