猫を起こさないように
ヴィンランド・サガ
ヴィンランド・サガ

雑文「V. Saga, M. Lion and H. Diver」(近況報告2025.10.13)

 ヴィンランド・サガの最終巻を読む。少し前の巻での「長年の仇敵が主人公をゆるす瞬間」の描き方がとてもよかったので、戦争の時代における”不戦”の先をどう語るのかについて、かなり期待していたのですが、さんざんメタファーの感想でディスった「昭和の平和教育」のお題目ーー戦争は反対です、なぜって戦争は反対だからですーーをトレースするみたいにして、尻きれトンボで終わってしまった。それこそ、菜切包丁をホウレン草の固い部分にふりおろすみたいに、「物語がそこで終わることを求めた」のではなく、「作者がその地点で語るのをやめた」終わり方になっているのです。ふたたび、我々の世代が呪われている呪いの実在をまざまざと見せつけられ、朝晩が急に寒くなってきたのあいまって、海溝のようにストンと気持ちが落ちるのを感じて、あわてて3月のライオン18巻を手にとりました。これまでに指摘した「脇役たちのサブシナリオが魅力的すぎて、主人公のメインストーリーが相対的に弱くなる」を煮つめたような内容ーーまあ、17歳のジャリなんて肉の輝きをとりのぞけば、中身はペラッペラでしょうけれど!ーーになっていて、おまけに巻末で作者が「次巻、最終巻!」を宣言しており、ひっくりかえりました(てっきり、群像劇と英雄譚は両立しないーーすべての人物の内面を微細に語れば、主人公の特別さは消えるーーことを自覚した、ライフワークとしての「終わらない物語」になるのだと思っていたのです)。たった2作品だけで一般論へ落としこむつもりはないのですが、作者が週間連載に耐えられないほど年齢を重ねて、月刊誌移籍や不定期掲載になった作品は、画面の密度はどこまでもあがれど、物語としての構造をうしなってーー描きたい場面を数珠につないで、気力かアイデアが切れたら、両端をひもでゆわえて提出するーーいく気がします。

 陽のいきおいのかげりと中年期以降の人生の衰退をオーバーラップさせるような読書体験に、気持ちの落ちこみはいっそう加速するなかで、タイムラインに流れてきたハチワンダイバーの電書半額セールを一括購入し、すがるように読みはじめました。すると、心のテンションはみるみるうちに急浮上へと転じたのです。メチャクチャおもしろいじゃないですか、これ! 描線ブレまくりのお世辞にも上手いとは言えない絵で、フキダシはアホみたいにデカくて、ストーリーはいきあたりばったりなクセに、鼻血とゲロが大好きなことだけは終始一貫してて、ヒロインは特殊性癖を対象にしすぎて魅力ゼロ、幼女の描き方もブッサイクなのに、なのにですよ、ほぼネームとパースとくるったような将棋への熱量だけでどんどん読ませていく、夕暮れの空き地に現れる薄汚れた(失礼)紙芝居師のような、マンガ本来のプリミティブな魅力がギュッ(ギュッ!)と詰まった作品になっている。最初のうちは、プロ棋士になれなかった者たちの”その後”をドキュメンタリー的に描くのかと思っていたら、仮面ライダーにはじまり、ドラゴンボール、バーチャファイター、大和に武蔵にビスマルクと、「男のコの好きなモノ」を闇鍋みたいにほうりこんだ、グッチャグチャの物語へと変じてゆきます。将棋への私的造詣を開陳すれば、ファミコンが家にくる以前に「はさみ将棋」「歩まわり」「コマくずし」を遊んでいたぐらいの人間なのですが、盤上に起こるさまざまな局面を絵による直喩でガンガン表現してくれるので、そんなルールを知らないシロウトでも楽しむことができ、将棋の魅力に対する呼び水的な普及マンガとして成立しているのです(年に数回、一日の作業手順をすべて記憶して、どの段階にも脳内でロールバックできる状態が必要な頭脳労働があって、もしかすると将棋への適性があるような気はしますが、いまさら手をだそうとは思いません)。

 個人的に強く感銘を受けたのは、奨励会の年齢制限によって、人生の時間をほぼすべてささげてきた道をとりあげられる残酷さで、「将棋より大切なことなんて、人生にあるのか」という言葉は、重たいボディブローのように心へズシリとひびきました。なんとなれば、小鳥猊下がいまだに書き続けているのは、テキスト奨励会には年齢制限がないだけのことで、「おもしろい、あるいは美しいテキストを書く以上に大切なことなんて、人生にあるのか」と、なかば本気で考えているからです。また、「社会のだれの役に立たなくてもゆるしてください、死ぬまで将棋の地獄で苦しみますので」というセリフもまさに至言であり、ちかごろ急激に数を増してきた多くの虚業に従事する者がいだくべき、”覚悟の質”を言い当てています(その一方で、ガテン奇乳と妊婦腹への嗜好を前面に押しだし、40歳をババアと呼び、35歳を人生の折り返し地点とする作り手の主観世界が、万人に受け入れられるとも思いません)。ハチワンダイバー、すべての女性を読者から排除し、さらに男性さえもふるいにかける作風だとは感じながら、読めばたちまちテンションがぶちアガるという一点において、日常に鬱傾向のある非虚業のみなさんにオススメです! 「ラスボス戦がショボい」というのも、名作の条件を満たしていますね! あと、チェンソーマン第2部の変容ーーアホみたいにデカいフキダシーーは、この作者のセンをねらったのかなと、ふと思いました。

漫画「3月のライオン」感想

 FGO第2部6章つながりで気になっていた「3月のライオン」を読む。予想以上に面白くて、既刊16巻までイッキ読みする。オベロンのキャラ造形が何の影響下なのか明らかになったことを喜びながら、完結の報を聞いてから手に取ればよかったと、いまは少し後悔しております。いろいろ先の展開を予想して、自分の妄想で勝手に深く感動して、それが外れるとたちまち評価が辛くなるという己の性質を熟知しているからです。この作者の持ち味は、ベシャベシャに湿気を含んだ状態から一瞬でカラカラに干上がらせる語り口の落差だと思うんですけど、ちょっとすべてのキャラを愛しすぎるきらいがあるようで、各棋士の生き様を掘り下げるサブシナリオはどれも120点なのに、巻が進むにつれて主人公のメインストーリーが弱くなっていくように感じました(あらためて、カウボーイビバップのバランスの良さを思い返し、感心しておる次第です)。

 連載開始当初のプランでは、容姿と髪色からもわかるように、主人公とネガポジの対比に置かれた宗谷名人と「『人間を捨てた者』と『人間を回復した者』とでは、いったいどちらが強いのか?」を争う展開が用意されていて、オベロンの内面を造形する上でのヒントにもなっていたと思うんです。それが名人の実家を掘り下げたことで、「将棋好きの小学生がそのまま大人になった」という描き方の土橋九段にキャラを寄せてきているので、主人公との最後の対局は「自由な子どもの発想から定跡や研究を離れて、将棋を指す純粋な喜びを互いに盤面で表現する」展開になるような気がしています。ホラ、あれですよ、ラオウとケンシロウが奥義を捨てて殴りあうのに、解説役の外野が「ああ、二人とも透き通って……!」とか言いながら、子ども時代の両者の影を見るってヤツですよ。個人的には、初期プロットの方でキッチリ勝ち負けつけて、どちらかに破滅してほしいですが、作者の愛が深すぎるゆえにそうはならないでしょうねえ(あらためて、鬼滅のキャラの突き放し方を思い返し、感心しておる次第です)。

 競技モノにおけるハッピーな最終戦の極北としては、川原泉の「銀のロマンティック」がただちに思い浮かびますが、あれも強い作家性に基づいた感動なので、どうにも余人にはマネしにくいよなー。ただひとつ確実なのは、獅子王(ライオン!)戦の終わりをもって物語の幕が引かれると仮定するならば、その前後でハチクロみたいに作品タイトルをだれかの台詞で回収することだと予言しておきます。

 「3月のライオン」追記。以前も書きましたけど、連載期間が長くなった作品って、FGOで言うところの固有結界よろしく、物語そのものに作者の心象風景が同化してくるところがあると感じます(あらためて、むこうぶち作者の作品との距離感を思い返し、感心しておる次第です)。「庇護者の下、無知で無垢なる者が無知で無垢なるまま、だれにも傷つけられず楽園に遊ぶ」ことが作者にとって究極の理想郷であり、ヒロインがどんどん幼児退行していく原因もここに根ざしていると思うのですが、本作の後半ではいよいよ男性キャラにまでこれが波及していっているのは気にかかります。苦しい場面を描くときはキャラの心に寄りそって、本当に同じ苦しみを苦しむ書き手で、その「ともに傷つき、もがくさま」をこそ読者は見たいと思っているのに、いまは物語の総体がヒロインの幸福に引っ張られて、魂が救われたあとの世界、すなわち死後の世界に片足をつっこんでしまっている。もうそうはならないことを半ば受け入れながら、やはり主人公と宗谷名人の最終決戦は、楽園から足を抜いた地獄の底で、いずれかの破滅を賭けて戦われてほしいのです。

 同じことを感じている作品に「ヴィンランド・サガ」があって、半眼から真円のマナコとなって悟りきった主人公(プラネテスみてえ)が未開の部族とハートフルな外交ゴッコをする展開が、なんとも味気なくつまらない。作品テーマを真に完遂するには、「本当に大切なものを壊され、それでもなお殺さずにゆるす」ことが描かれるべきだと思うのです。「主人公はもう充分に奪われたし、苦しんだのだから、そろそろ安寧の場所を与えたい」というのは、書き手による神の視点でしょう。そして、「ゆるす」というのは行為ではなく状態であり、「目もくらむような極寒の激情が日常をさいなみ、その原因がいつも視界に存在する中で、油断すれば殺しにいく手を押さえつけながら、ずっとゆるし続ける」ことが外交、すなわち人間関係の本質なのです。これを抜きにしては、現代社会に対する有効な批評とはなりえません。

 またもや先の展開を妄想して勝手に感動し、物語へ「現実に対して有効であること」を求める精神の陥穽を披露したところで、きょうはお開きとさせていただきます。

アニメ「波よ聞いてくれ」感想

 「苦悩と憎悪は個別的だが、救済は普遍に回収されるしかない」ってのは昔から思ってる。

 ヴィンランド・サガが好きで(アニメはアレでしたね)、単行本で追いかける派だから今どうなってるか知らないんだけど、ネットで見かけた主人公の顔がプラネテスの「愛することはやめられない」の顔になってて、またぞろ先行きに不安が募っている。苦悩と憎悪を魅力的に描いておきながら、救済の段階で感情が宗教に類似した何かで漂白されたみたいになるのって、世代の問題なのでしょうか。「生きながら萌えゲーに葬られ」を再読して、そんなことを考えました。ちなみに「高天原勃津矢」は普遍的な苦悩からの個別的な救済になってて、裏返しの関係になってると思います(まあ、ロスジェネくらいのスパンの普遍に過ぎませんが)。

 ぜんぜん関係ないけど、アニメ化がアレでひとつ思い出しました。家人が「波よ聞いてくれ」のファンなんですけど、アニメ版の1話を見終わった後の感想が「自分がこんな話を好きだったなんて、すごく恥ずかしくなった」でした。それを聞いて、漫画芸術の持つ優位性のひとつとして「不条理の飲みこませ方」って、じつはすごく大きいんじゃないかなと感じさせられました。アニメ化によって漫画から抜け落ちる要素って、なんなんでしょうね。

 @unknown 時間感覚が発信者に合わせられる感じがして、好ましくないことも少なくありません。漫画は自分の配分で読めますが、アニメは解釈と反応を強制(矯正)させられる感があります。良い効果のこともあるにはあるんですが

 ご指摘は慧眼で、本質的に「ヘンな話」を成立させていたのは、読み手の人生による補完だったと思います。アニメ版はおのれの言動を奇矯だと自覚していないおたくを見るような痛々しい感じが全編に横溢しており、アニメ制作者はどうすればあの原作をこう解釈できるのか、おたくは己がおたくであることを自認できないからおたくなのか、などと考えました。また、「音楽漫画の実写化問題」と同じ根を持つような気もします。アニメ演技でない、本職のラジオパーソナリティを当てれば、ある程度は解消したのかもしれません(宮崎駿みたいなこと言ってる)。絵もあんなペカペカ明るい感じじゃなくて、もっと原作に寄せた陰影があれば……視聴中、瞳の影の付け方が昆布みたいでヘンだな、とずっと思ってました。