世界はあまりに膨大になりすぎたため、ただの羅針盤にさえ重大な意味がある。

愛のうた


サッカー・パンチ

おたくが好むストーリーテリングを定義する要素は2つある。1つ目は、養育者との良好ではない関係性の再演。これについてはnWo読者ならば全員、「またか」と眉をひそめるほど語っているので、ここでは改めては触れない。2つ目は、己の性を含んだ身体性の拒絶。身体性を放棄した少女が男性にセックスを仮託するときそれはBLとなり、身体性を放棄した男性が少女にセックスを仮託するときそれはエロゲーとなる。自己と身体性が乖離していなければ、それこそアダルトビデオの快楽で充分だろうが、性に至るための回路が、精神的課題を経由することでねじれてしまっているのだ。二次元のエロと三次元のエロが我々にとって等価ではなく、ときにBLやエロゲーの中に高い文学性を含んだものが出現する理由がここにある。養育者との関係性と身体性の拒絶、これら2つの要素が暗示的、あるいは象徴的にストーリーへ織り込まれていることは、ゆえにおたく層を強く引きつけるが、同時にそれ以外の人々に対する明確な阻害要因となる。本作は配給会社が「エンジェルウォーズ」なる奇ッ怪の邦題をつけたことにより、本来は見るべきでない人々に届いた結果として、本質から外れた悪評を多く残してしまった。この類の作品に対するマーケティングの、ひとつの失敗例だと思う。
ガリバー旅行記

ジャック・ブラック主演の時点で無条件買いなんだよ! いいだろ、俺にとってのブサメンパラダイスなんだからよ! オマエらが顔面と歌唱力の不自由なアイドルとの一時的接触を買春するために大量のブランクディスクをアヘ顔で買い求めるようなもんだろ! なのに、おい、製作サイドども! 「ジャック・ブラックの顔芸だけじゃもたねーな」とか、急に冷静になって思いきり尺を縮めてんじゃねーよ! いいんだよ、二時間半に編集すりゃあ! 急に一般層を意識してんじゃねーよ! この映画を見てんのは、ジャック・ブラックのファンしかいねーんだから、そこを突き詰めろよ! うんこアイドルのうんこPVと同じだろ! いいんだよ、ファン以外にとってはうんこで! 日和ってんじゃねーぞ、コラ!
塔の上のラプンツェル

ピクサーがここまで大きくなったのは、ダビデとゴリアテの昔から、みんな驕れる巨人を倒す小人の話が大好きだからだ。しかし、驕らない巨人、休まないウサギが勝負にさえ見えないレベルで圧倒的に勝ち続けるという状況が世界の大部分を占めることは覚えておいて欲しい。君たちは為政者側が提供する弱者慰撫の寓話に騙されてはならない。閑話休題。「魔法にかけられて」を作ったことでいよいよディズニーは両目が開き、二つ目の千年紀に突入したのかもしれぬ。本作ではディズニー定番の恋愛劇の裏側で、原作の持つしたたるような毒が希釈されずに保持されている。見たくない者には見えない場所に配置したことで、観客を選抜せずに物語へ厚みを与えることに成功したのだ。アングラ劇の陥りがちな、過激化で少数を選抜しその少数をさらにコア化するという手法とは真逆であり、己の出自を強く誇る胸を張った王道感が素晴らしい。「予を誰と心得る。ディズニーであるぞ。かような姑息の勝ちは我が覇道を昏くする」といった台詞が、公家っぽいボイスですぐ耳元に再生されるようだ(幻聴です)。指摘するまでもないが、この物語は母と娘の間にまま生じる深い共依存、さらには相姦関係を描いており、「仲良しの、友だちみたいな母娘って、なんか気持ちワリーな」などと漠然と感じている全国六千万のマスオさんは、その漠然とした違和感を明瞭化するために、サザエさんとともに視聴するとよい。サザエさんは表層に目を輝かせ、マスオさんは裏の本質に呻吟する状況を世紀末覇者・ディズニーが想定していたとすれば、実にパンクだ。けど、ゴムみたいなチューはいただけないと思った。作り手のフェチを強要されていると感じるぐらい淫靡な髪の毛の描写と対照的で、ラバーメン感がものすごい。もっとこう、フワッとマシュマロみたいなチューをせんかい。
ソーシャル・ネットワーク

実在の天才の周辺を実名そのままに映画化したという一点において、デビッド・フィンチャーの力技を感じさせられる。しかしながら、いかせん未だ立志伝の途上にある人物だからして、企業的なブランディングを抜いて視聴することは極めて難しい。さらに、未だ立志伝の途上にある人物だからして、今日に至るまでのエピソードが少なすぎ、前半の密度感に比して後半の失速感がハンパ無い。高い評価の理由に首肯できるのは最初の一時間だけで、単体の映画作品として考えた場合の評価は低いものにならざるを得ない。また、エンディング間際でとってつけたザッカーバーグの「いい人」方向のキャラ立てには、本人からのプロパガンダの臭みを強く感じる。ただ、これだけ薄い中身を撮影と編集の技術で二時間に膨らませた監督の手腕には、素直に敬意を表したい。
アンストッパブル

デンゼル・ワシントンが主演の時点で、米国の低所得者慰撫が目的の映画であることは確定的に明らか。機械と人間、資本家と労働者、若者と老人、恥ずかしいほど塗り重ねられる対立の構図へさらに並行する家族の問題。あらゆるテーマが列車の暴走を食い止めることへ収束し、二時間が経過する頃にはすべてびっくりするほどきれいさっぱり解決する。きっと労働者階級の憤懣による蜂起をくじくため、老人の資本家どもが「やはりグリフィス四重奏団の音は世界一だねえ」とか言いながら(マスターキートンからの知識)、後ろ手に縛られたデンゼル・ワシントンのビキニパンツへ百ドル札とかいっぱい突っ込んで作らせたに違いないよ! こんなのがすごい面白いなんて、く、くやしい……ビクンビクン!
アポロ13

劇場で見た際にも感動したのだけれど、それは話のスケール感とSFっぽさに対する漠然とした中身に過ぎなかった。今回あらためて視聴する機会を持ち、普段はまとまらない組織がひとつの大目標や危機の共有を通じて結束してゆくダイナミズムに心うたれたのである。そして、十五年という歳月がもたらしたものに感慨を覚えたのだった。君と私が何よりの生き証人だと思うが、個として切り離された場合の人類がまったくどうしようもないふるまいをする生き物であることを否定はできまい。だがもしかすると総体としてならば、我々は何か大きな命題を成し遂げ、ある種の崇高さに至れるのではないかという淡い錯覚――それは希望の別名である――をこの映画は与えてくれる。もっとも、本邦においてはここ半世紀というものずっと、結束へと向かう熱の高まりはすべて、民族レベルの防衛機制が自動的かつ徹底的に無意識を検閲し、シラケへと上書きされてしまう状態が続いているのだが! 紙と鉛筆で軌道計算をするところと、苛立たしく投影機を脇へやって黒板にチョークで書きつけるところが、すごく好き。
鈴木先生(11)

「そんなにやりたいんだったら…その子の代わりに――わたしをおやりなさい!!」「!! あ…あれは…猫足立ちからの…前蹴り連続…!! いかん…浅いッ!!」 え、ちょ、これ学園ドラ……いや! いやいやいや! ブラヴォ、ブラーヴォ!
バーレスク

"You haven't seen the last of me." 人生のあらゆる不条理を歌と踊りで解決する、清く正しいミュージカル時空。本邦では二次元アイドルの処女性が銀河を救済するのに対し、本作では三次元非処女のビッチダンスが場末のクラブを救済しており、彼我の文化間にある深い隔絶へ思い至らせるとき、哲学的な目眩さえ生じるのであった。終盤の解決を歌唱力ではなくシナリオに依存したため、若干のタルさと不完全燃焼感が残るが、ミュージカルなんだ、こまけぇこたぁいいんだよ!
ブラックジャック劇場版

すべてがスーパーフラットな本邦において、才覚や能力で衆に秀でた誰かが己の上に立つことは、許しがたい恥辱である。つまり血筋や世襲という方法は、他者への嫉妬が深く根ざした文化の、消去法による選択なのだ。しかしながら、アニメや漫画という新しい創作にまでそれが適用されるとき、そこにはある種の滑稽さがにじまざるをえない。もしかすると、宮崎や手塚は遠くない未来、市川や尾上と同じように扱われるのかも知れぬ。だが、己の子でさえ己の個とは似つかない。遺伝子を残す代わりに作品を残すのが、作ることの本質ではなかったのか。私にとってのブラックジャックは出崎統しかないことを、改めてここに宣言しておく。
デュー・デート

「論理的である」というのは現代人にとっての陥穽だ。数式や定理ではないそれは、万人に通じるという前提を持たないにも関わらず、有効性を疑われない状態に置かれている。論理性とは、個人の解釈に世界を矮小化するための筋道に過ぎず、物語化された後の世界が第三者に対して常に意味を為すわけではない。究極的に論理と宗教とは同義であり、それゆえ人間が二人いれば、この世に新たな教義が顕現する可能性がある。その特殊性こそが、人と人との関係性として、人生へ新たな意味付けを行うのだ。小生はそろそろ、頼みにならない相棒しかいないこのインターネットから抜け出し、現実のファック野郎とトレイラーでアメリカを横断したい。
ベリード

小生の少なくはない映画視聴歴において発見した法則に、「低予算映画はバッドエンド」が挙げられる。1つ目の仮説は、設定と脚本へ大きく依拠せざるを得ない宿命が、視聴者をあざむく方向へとそれらを複雑化させるからというもの。2つ目の仮説は、低予算しか与えられない監督が新人である可能性は高く、その若さが本邦で言うところの中二病に由来する後味の悪い幕引きを求めるからというもの。今作がいずれに該当したかはわからないが、高めに高めた息苦しさの後、多くの視聴者が求めるだろうカタルシスをあえて外した結末に、ひどく低予算映画を感じた。90分の閉塞が視聴者にもたらしている感情をなぜ利用しないんだろう。ミステリ的な脚本の収まりや現実への批判を含ませたい意図はわかる。でも、生理的解放感という単純さを嫌ったというだけの理由なら、もったいないなあ。
マチェーテ

なぜ本邦では武力蜂起や革命が起きないかと申せば、やはり打倒すべき悪が明確ではないことが上げられましょう。本邦において悪の概念にもっとも近いのは、近視眼的な責任回避や生への倦怠から来る不作為に端を発した、善の不在なのです。じっさい近年、大局として求められる悪を積極的に行使するだれかはいませんでした。しかしながら、善の不在も長く続けば、それは悪へと変質する瞬間を持ちます。そのとき本邦に登場するマチェーテは、閾値を超えた連中の生き血に染まる、鉈(なた)という名前のセーラー服少女に間違いありません。彼女はあらゆる男性から理由なく好意を寄せられますが、行為に及ぼうとする者はすべて死にます。深夜アニメで制作された後、似ても似つかぬ新人アイドルで実写化され、封切り一ヶ月ほどでこのキャラクターには完全なる国民的忘却が与えられるでしょう。そして、その新人アイドルがアダルトビデオに出演するときに、ほんの少しだけ思い出されるでしょう。こうして、武力蜂起と革命の気概は若者の胸から、ごく小さな体積で莫大な吸収率を誇るサブカルという名のポリマーへことごとくに吸い取られ、結果、この世の悪は保持されるでしょう。諸君、これが文化の差と呼ばれるものだ。
キック・アス

らんらんらーらんららんらーらんらんらんらんらんららーらんらんらーらんららんらーらんらんらんらんらんららー。従来の魔法少女ものの文法を逆手に取ったのが貴様らの愛するアレならば、従来のアメコミヒーローものの文法を逆手に取ったのが俺様の愛するコレだ! ロリコンという罵倒ですら生ぬるい、刃物と銃火器を振り回しながら猥語を発する少女にしか欲情できぬ腐れオマンコ野郎どもには、お似合いの作品だわ! らんらんらーらんららんらーらんらんらんらんらんららーらんらんらーらんららんらーらんらんらんらんらんららー。
エクスペンダブルズ

「うわあ、つまらない! びっくりするほどつまらないよ! 特撮とかアニメとかでもそうだけど、オールスターが登場するお話になると、とたんつまらなくなるのはどうしてなんだろう! 教えて、聖母さま!」「(微笑んで)それはね、ケンジ君、優しさゆえなの。スター全員に、等分の尺で見せ場を作ろうとする製作側の配慮が、シナリオから緩急と起伏を奪ってしまうのよ」「うわあ、聖母さま、ありがとう! よくわかったよ! もうぼく、オールスターものはぜったい見ないことに決めたよ! ぜったいに!」
ドラゴンエイジ・オリジンズ

ぼくは、例えばファイナルファンタジーが、ぼくとともに成長してくれなかったことをどこかで恨みに思ってきた。本邦のおたく産業は、いずれ誰もがそこから離れることを前提とした若さと未熟さを輪廻する文化であり、大人になったぼくはいつまでも離れられないことを恥じてうつむきながら、それを再確認し続けてきた。じっさい、おたくだったぼくはずっと、たぶんつい最近まで、三十歳から先は無いもののように感じていた。なぜって、ぼくのいる場所では、どこにもそれは描かれていなかったから。けれど、世界との処し方において、人の成長はどこまでも続いていくことをやがて知る。確かに、荒い作りのゲームだ。システムの根幹に気がついてしまえば、いずれ変わらぬ一本道RPGには違いない。キャラ造形にしたって、いずれ同じトラウマ劇じゃないかと言われれば、全くその通りだ。でも、どのキャラも人くさく歪んでるのに、そのくせ、その歪みを誰かのせいにしないほど成熟している。そう、すべての成熟が、ついにぼくをうつむかせなかった。争いや信仰や愛憎や生殺は終わることがなく、世界の破滅という大きな題目を前にしてさえ、誰もがじぶんの小さな安寧を捨てられるわけじゃない。「グレイ・ウォーデンはその無私により、あらゆる種族から人間の存亡をかけた信頼を付託される」。無私の奉仕だけが救済を可能にするという揺るぎない事実。己の生命よりも長く続く何かに寄与できることの尊さ。失われたと思っていたあの系譜が、こうあって欲しいと願ったあの物語が、異国の地で接木され、生き延びているのをぼくは見た。この若い文化さえ成熟できるということ、そして、誰かの成長に寄り添う物語を生んだということに、ぼくは深い感謝を捧げたい。
 

<< previous page | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 | next page >>