世界はあまりに膨大になりすぎたため、ただの羅針盤にさえ重大な意味がある。

愛のうた


ヘルタースケルター

原作好きの小鳥尻ゲイカとしては、いつか見ずばなるまいと思っていた。で、今日見た。ジャック・ブラックのファンが彼の顔芸だけで内容を度外視した二時間を楽しめるのに対して、沢尻エリカのファンが彼女の肉体だけで内容を度外視した二時間を楽しめる映画に仕上がっていた。もちろん原作の持つ凄みを越えるものではないし、おそらくハナから原作を越えようと制作しているわけでもないだろうが、多用されるプロモーション・ビデオ的な映像が全体を冗長にしている嫌いこそあれ、実写化としてこれ以上を望むのは難しいのではないか。現在の本邦を見回して、沢尻エリカほどりりこと近似値を取る存在はいないからだ。演技ができるわけでもない、歌がうまいわけでもない、ただ若さと美貌だけが芸能界に彼女の居場所がある理由だ。ただ以降はこれらの持ち物を手放していくしかない時期に、りりこ役にキャスティングされたことが、沢尻エリカのドキュメンタリー的要素を作品に加えている。確かに、ほうぼうで指摘されるように、演技ができていない。怒りと傲慢と、そしてたぶん無邪気さが彼女の地金で、それ以外の感情を演じなければならないとき、シーンが虚構として成立しないレベルだ。特に物語の後半、りりこの崩壊を描く部分では、もはや原作とは遠く離れた別物になってしまっている。しかしながら、若さと美貌しか寄りどころを持たない誰かの空っぽさは、皮肉にも演技ができないことで痛いほど表現されており、原作とは全く別物でありながら、沢尻エリカという人物そのものが放つメッセージ性にまで昇華されている。未視聴の諸君へのアドバイスするとしたら、沢尻エリカのファンなら必ず見るべきだし、原作ファンであっても原作を下敷きにした二次創作的派生作品だと自分に言い聞かせることを前提として、やはり見る価値がある。あと、全国で一割にも満たないだろうアホみたいなギャルどもを、さも女子高生の主体であり本流みたいにフィクションで描くのは、「制服少女たちの選択」ぐらいからずっと変わんないなー、と思った。いったん与えられた社会学的メッセージが、二十年くらい誰にも更新されていない感じ。
リンダリンダリンダ

リアル版「けいおん!」。学校という場は、あらゆる人々が必ず経なければならないため、あらゆる愛憎がそこへ集積する。ゆえに、だれもが学校を舞台にした物語を語り得るし、学校を舞台にしたあらゆる物語はその拙劣に関わらず、人々の感情を揺り動かす。通過点ゆえのエンドマークの置けなさが、そのままドラマとなるからだ。最も汚れなき時代に、己を最も清らかさから遠いと感じる心性をこそ、青春と呼ぶのだろう。
プロメテウス

『しかし、誰もが親の死を望むものではありませんか?』『私は違ったわ』。ストーリー展開のトンデモを指摘する低評価が多く見られますが、いいですか、これはSF作品ではありません。リドリー・スコット作品です。「このモビルスーツからはオマンコの臭いがしない」で有名な某監督と同じく、あらゆる台詞、あらゆる場面、あらゆるデザインが個人の妄念と情念に由来していると考えましょう。すべては必然なのです。あと、SF作品としての既視感を指摘する声があるようですが、いいですか、ブレードランナーとエイリアンはリドリー・スコットが作りました。これらから派生した多くの亜種・亜流を回収して再集約する試みがプロメテウスであって、某国のように起源を曲げた発言をしてはいけません。私たちが見てきたあらゆるSF的映像は、リドリー・スコットの影響下にあるのです。有象無象のコピー作品群とは異なった、本家の圧倒的なセンスの良さを感じとりましょう。それと、開始後すぐに物語最大の謎が明かされて拍子抜け、みたいな批判が散見されますが、あのね、それは配給会社が宣伝文句として投げかけているホワットであって、この映画の問いの本質はホワイなんです。だいたい、リドリー・スコット監督という時点で、映画館に入る前からホワットの問いはすでに答えが割れてるみたいなものでしょう。そうですね、この映画を視聴すべき層へピンポイントで届かせるには、きっとタイトルを“エイリアン・ゼロ”とかにすれば――おおっと! あぶない、あぶない! あやうく重大なネタバレをするところでした! 「その名を聞けば無条件で視聴し、視聴前から批評を越えている」数少ない監督の一人なのでこれ以上は語りませんが、ひとつだけ。親を憎むクリエイターが、親を憎まない人物を主人公にする。多くの物語の本質はそこにあるのかな、と思いました。
コクリコ坂から

なんだろう、宮崎駿を失った後、ジブリはその遺産の管財人として生きるので無ければ、新たな当主を否応に担がなければならないはずのに、すべてにわたって全く結集できていない感じがする。ゲド戦記は原作者とファンの双方を激怒させるほどにクソだったが、少なくとも監督の個人的な反骨、父親を超えようという意志だけは感じることができた。今回はそれさえ失われている。作品選定の段階で、父親には認められたい、観客には自分を父親と重ねて見て欲しいという前回より退行した意志をしか感じない。監督の年齢から考えて、この作品の舞台設定に己の表現を重ねたい何の動機があるのかも全く不明だ。残された者の生活のためにスタジオを残す、それは充分に尊いことだと私は思う。
アベンジャーズ

「スーパー!」の理解を深めるために併せて見るべき、同時上映の前半部分、前座的な大作と言える。この集大成のために作られた様々のマーベル・ヒーロー映画のおいしいところを、ロバート・ダウニーJrのキャラクターがすべて持っていってしまっており、アイアンマン番外編と称した方がしっくりくる仕上がりだった。冒頭で巨大空母が宙を舞うシーンを見て、なんか既視感あるなー、なんだったかなーと考えていたらエヴァQだった。気づいた途端、ボロボロと涙がこぼれてきて、どれほどひどく爆破されても傷ひとつつかない(CGだから?)、墜落する素振りすら見せないヴンダーに比べて、なんて作劇上の緊張感があるんだろうって、やっぱりこの国のフィクションはハリウッドには絶対に勝てないんだって、悲しくなったの。
スーパー!

この年末年始に様々なジャンルの積み映画を鑑賞したが、本作のあまりのスーパーぶりに他はすべて吹き飛んでしまった。最初のうちは「ああ、キックアスね」などと斜に構えたナメた態度をとっていたのが、終盤には自然と居住まいを正していた。米国の掲げる正義、信念と狂気の相関、ヒーローの存在意義、善悪の境界など、ひとつのストーリーラインへ様々のアナロジーが多層的に重ねられ、現代世界をいったん俯瞰する甘いフォーカスから、後半のクライマックスで一気に焦点を絞り込むという力技には、まさに度肝を抜かれた。最後の場面での「俺を殺して世界が変わるとでも思っているのか!」「殺してみなければわからない!」というやりとりは、主役の怪演とあいまって、強いメッセージとなって迫ってくる。どれほど科学が進歩しようと、どれほどネットが我々をつなげようと、死だけは不可逆の個別的な事象であり続ける。我々は誰かの生を生きることはできても、誰かの死を死ぬことはできない。フセインの殺害も、ビンラーディンの殺害も、米国の望むように世界を変えはしなかったが、やはりこの主人公と同じく「殺してみなければわからない!」と絶叫しながら殺したのだ。どんな小さな死でさえ、人には制御しえないという一点から世界の変化につながる可能性を常に孕んでいる。だから当て物のように、宝くじと同じ期待で、彼らの生命を奪った。話がだいぶそれたが、私の言葉くらいではこの大傑作の実相を伝えきれない。nWoオールタイムベスト入りを果たした本作の凄みを、君自身の目で確かめて欲しい。あと、平たい胸族a.k.a.エレン・ペイジがちょう可愛い。ボルティーのキチガイっぷりに萌えるのは、アホの子を愛でる我々オトナの嗜みと言えるだろう。
HUNTER×HUNTER 32

個人的に近年の本作は、すごく作者のライブ感覚が反映されているように感じており、特に蟻編では人体欠損や心理の過剰な描写から、積極的に作品と主人公を壊しにかかってるようで、自傷めいたその雰囲気に息を詰める思いでいた。どこかで作者がシナリオ作法を語っているのを読んだことがある。登場人物たちとの対話を通じてプロットを組んでいくらしい。ある状況に置かれたときに、登場人物が何を感じどうふるまうかがわかれば、その化学反応で物語が組み上がるというわけだ。裏を返せば、どうすれば最も残酷に各キャラクターを壊せるかを知っているということでもある。蟻編では創作者イコール神の力を存分に発揮して、主人公の肉体と精神を完全に破壊し尽くした。いかなる方法でも彼に刻まれた傷を完全にはとりのぞけず、以後の物語の進行に深刻な影響を及ぼすと思われた。その状況を受けての今回の選挙編だが、私は震災の影響下に描かれた作品であると強く感じた。蟻編での悪意――言い換えれば、作者の気分――に晒されていないキャラクターが作中で行う演説は、主人公と被災者をオーバーラップさせた作者からの懺悔と謝罪のようにも読める。そして、世の埒外にある癒しと死者の復活というふたつの奇跡をもって、不可逆に壊されたはずの主人公の肉体と精神は蟻編以前の状態へと巻き戻された。もし震災が無かったなら、この顛末は全く違ったようになっていたのではないかと想像する。蟻編とは、少年漫画的作劇からすべての要素においてひとつずつ位相をズラした批判であり、主人公の持つ純粋さと信念に対してさえ、それが適応されていた。己の持ち物では避けえぬ世界の残酷さと自身の無力を知ったとき、少年が壊れることは必定だった。けれど、そんな当たり前の敗北を、我々の誰もが体験してきた敗北を、だれが少年漫画というジャンルで目にしたいだろう? もしかしたら現実に負けない信念や純粋さがあるのではないかという祈りが、いまを生きる少年と、かつて少年だった大人たちにとって、理不尽な喪失を乗り越えていくために必要なのだと思う。ハンターハンターはこの選挙編の後、たぶん普通の少年漫画になるだろう。震災が、ハンターハンターを普通の少年漫画に戻すのだ。しかしその内容がどのようなものであれ、蟻編と選挙編を経たからこそ、我々が縁側の老人の背中に無為を感じないような、経てきたがゆえの重さを加えるに違いない。その行方を見届けるために、私は信念とも純粋さとも遠い場所で、なんとか死なずにやっていこうと思う。
スーパーマン・リターンズ

三度目の視聴だと思うが、いつもレックス・ルーサーに感情移入してしまう。至弱を率いて至強に相対する日々、勝つことは端から放棄され、いかに損害を少なくした引き分けに持ちこむかばかりを考えるリーマン生活において、無邪気にスーパーマンの完全性を礼賛することはできなくなった。無謬の正義という虚構によって殺されないまま庇護され、ただその権威の確かさを再確認するためだけに挑み続ける道化、最も情けない小悪党。しかし、その姿を誰も笑えまい。昔から、ヒーローを扱ったシリーズもので、悪党側の主観から描かれる回が好きだった。個々人が総身の知恵をふりしぼり、組織はすべての力を結集させる。絶対に勝てないことは、あらかじめ運命づけられているのに。あの敗北は、子どもの目にとって諧謔だった。いまは、胃の腑に重たい現実である。私たちは、だれもヒーローのように勝つことができない。閑話休題。冒頭の飛行機事故から野球場へ至るシークエンスは、スーパーマンの能力とその象徴性を完璧に描ききっており、毎回感動する。せめてあの球場にいる人間になれればなあ、と思う。
IN TIME

"You can do a lot in a day." ガタカ以降、同監督のすべての作品をチェックしてきたが、久しぶりの最新作が、これまた久しぶりのSFということでワクワクしながら視聴を開始した。既存の社会システムに対する批判と思考実験がSFの本領だと信じて疑わない小生にとって、優生学やデザイナーベイビーの問題をテーマとして見事な人間賛歌を歌い上げたガタカは、あれから十余年を経てなお、nWoオールタイム・ベストの五指に入り続けている。今作の意図は、資本主義の問題点を可視化することだということはわかる。もちろん、良作である。SF好きとして、SF作品への評価が不当に厳しくなることを前提に聞いて欲しい。はたして本作がガタカの高みにまで達していたかと言えば、残念ながら疑問を呈さざるを得ない。「俺たちに明日はない」のSFペッパー風味というか、全体の薄味をアクション要素で濃い味付けにしている感じなのだ。アタシね、左手に余命のデジタル表示が夜の海で蛍光色の緑色に輝くのを見たとき、あー、なんかこれ、どっかで見たことあるなー、ってぼんやり考えてたら、その記憶がエヴァ序の直上会戦のときの、初号機の左手だって気づいたの。気づいたとたん、ボロボロと涙がこぼれてきて、どうしてアタシ、こんなになっちゃったんだろうって。アタシ、まえはもっと強かったのにって。
テルマエ・ロマエ

バカほど手を抜かず、大真面目にやらなきゃダメだ! 前半は手を抜かず大真面目にやった、すごくいいバカだ! 端々からスタッフの悪ノリが伝わってきて、思わず笑顔になる! だが後半の展開はいただけない! 木ッ端アイドルとのクソ恋愛を必ず入れるという邦画の旧弊から逃れられていない! 逃れろ!
アメイジング・スパイダーマン

いや、本当によくできてますよ。ヒューマンドラマを丁寧に追っていて、良作以上の仕上がりだと思います。ですが、サム・ライミによる前三作を否定してまでリブートする意味があったかというと、はなはだ疑問に感じざるを得ません。あれ、つい最近なんか似たような感想を持った作品があるなー、なんだったかなーと思ったら、エヴァQだった。あと、ヒロインがキルスティン・ダンストを彷彿とさせる同系列のブサイクだった。これが、スパイダーマンの呪縛か。
バトルシップ

恒星間航行可能な宇宙船のミサイルが一発では駆逐艦を沈められなかったり、音速の戦闘機の突撃にも耐えるバリアを生成可能な宇宙船が駆逐艦のミサイルに損害を受けたり、現代のネイビーが打倒し得るよう絶妙に配慮された控えめ兵装のエイリアンたち。どっかで似たような話を見たなー、どこだったかなーと考えてたら、ロサンゼルス決戦だった。ロシア、日本、中国、もはや仮想敵国を持てないアメリカは、好戦的な宇宙人の侵略をいま世界で最も待ち望んでいる国であろう。NASAへの積極的な財政支援が待たれるところだ。あと「こんな老朽艦、動かせるわけない」とか叫ぶところで、すぐさまミズーリの艦橋に立つ退役兵を写すカメラアングルにすごい笑った。ツッコミどころは満載だが、アメリカン青春グラフティのテンプレートに2億ドルぶちこむハリウッド特有の物量感に、もはや一周した敬意をしか感じない。
メランコリア

やったよ、ぼくらのヒロイン、キルスティン・ダンストに最高の当たり役が来たよ! 君は顔面アファーマティブ・アクションで出演させてもらっている女優じゃなかったんだね! 言わば食べられる方のブタ、演技ができる方のブサイクだったんだ! それもこれもサム・ライミの野郎の、ラース・フォン・トリアーとは別の意味で気の狂った配役のせいで、ついうっかり世界的に有名なブサイク(見た瞬間に処女ではないとわかる圧倒的なツラがまえ!)になってしまったのが悪かったんだ! キルスティン、極東より心からのおめでとうを言わせてもらうよ! 第一部は盛大な手ぶれカメラからの徹底した欝展開で、本邦随一のファンを自認する小生を陶然とさせる完璧な上がりでした。しかしながら、監督が「日常では屑そのものだが、終末ならば泰然と迎えられる自分」を称揚するために作った第二部は完全な蛇足です。アンチ・クライストのときも少し思ったけど、ラース・フォン・トリアーにカネを与えてはいけません。このオッサン、余計なとこに使うから。極東のファンはあなたの無一文からのワシントンが見たいと願っています。あと、モノホンのキチガイがモノホンのビョーキから作り出した冒頭の十分間を見て、テレンス・マリック某は深く深く恥じ入るべきだと思った。
ドライヴ

ネットでの高評価だけを鵜呑みにして、何の予備知識もなく視聴したら前半と後半の落差にのけぞった。北野武の初期作品とか、長渕剛の昔のドラマとか、レザボアドッグスとか、そういうのと同じ匂いがする。つまり、強烈な怒りによって世に出た者に共通した、突発的かつ執拗なまでに残忍な暴力描写だ。メカに強くて運転がうまくて、普段は穏やかで欲がないが、他人のために怒ると滅法強い。この主人公像は、ある種の人々とってものすごく願望充足的に機能するんだろう。エンディングに流れる主題歌(?)の曲調と歌詞がストーリーの内容と異様にミスマッチだと感じた私は、監督の想定するヒーロー像に感情移入できておらず、おそらく理想的な視聴者ではない。中二病のアッパーバージョンみたいなこの内容を激賞する方々とは、ちょっと友だちにはなりにくいなー、と思った。あと、ドライ“ヴ”という邦題の付け方がこの映画の本質をよく表しているなー、と思った。
ストリングス

インセプションの作劇をチームアメリカの文法で撮影するとこの映画になります。監督の意識はおそらくノーラン側ですが、観客たる私の意識は常にトレイ&マット側でした。ラストシーンで爆笑するか号泣するかで、その人の資質をはかることができます。婚約前の恋人と見ましょう。え、私ですか? んもおおおお! 「横断歩道の白いとこ踏み外したら死亡」みたいな設定で感動させられると思うなよおおおお! 小学生かよおおおお! んもおおおお!
 

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