世界はあまりに膨大になりすぎたため、ただの羅針盤にさえ重大な意味がある。

愛のうた


魔界の滅亡

指輪物語を読む前、私の中でファンタジーの極北に位置していたのは、ドルアーガシリーズだった。「悪魔に魅せられし者」「魔宮の勇者たち」は、それこそ表紙が擦り切れるまで遊んだ。普通の文庫本の見かけで文字サイズも小さく、子供心にすごく大人の本を読んでいる感じがした。母親も普通の小説を読んでいると勘違いしていたようだ。(というのも以前、「ドルアーガの塔外伝」という明らかに児童向けの装丁のゲームブックを、ずっと手放さずに読んでいたからだ)。赤い背表紙を最高にカッコイイと思い、ブックカバーをかけようなんて少しも考えなかった。奥付の「東京創元社」という意味のわからない文字列も、ひどく謎めいて神秘的に感じられた。今でさえ私の中で、「東京」という単語の持つイメージは赤い背表紙の文庫本と、東京創元社の社名に紐付けられている。天辺の断ち切りの凹凸に指の腹を滑らせる感触が好きだったし、開いたページに鼻を突っこんでよく紙とインクのにおいを嗅いだものだ。ドルアーガシリーズ三部作の完結編は本当に待ち遠しく、当時は新刊の発売日を調べることさえしなかった(当然、ネットも無かった)から、学校帰りに毎日、駅前の書店へ自転車で通った。発売日のことを覚えている。平積みではなかったように思う。赤い背表紙に白抜きで「魔界の滅亡」と書いてあった。ドルアーガシリーズの併記は無かったにも関わらず、私はそれが待ち望んだ一冊であることがわかった。あの頃は誰が書いた本かなんて意識もしなかったのに、もしかすると鈴木直人の名前を覚えていたのかもしれない。手に取ると、ひどく分厚かった。表紙に描かれた巨大な悪魔と細身の騎士を見て、痺れるような高揚を味わった。私がこの悪魔を殺すことで、魔界は滅亡するのだ! 消費税はまだ導入されておらず、自販機のジュースが100円だった時代だ。小走りに駆け込んだレジで告げられたのは、680円。手持ちは600円ちょうど。「魔宮の勇者たち」が550円だったからだ。黙って本を元の棚へ戻すと、私は家へと急いだ。足りない分を取りに帰るためだ。家に着いたときには、もう5時を回っていただろうか。私の常にはめずらしく、母親の強い制止(ヒステリックな怒鳴り声の)をふりきって、再び書店へと向う。周囲はすでに薄暗く、街灯がともりはじめていた。あのドルアーガシリーズの完結編を手に入れられるという興奮と、親の言うことを聞かなかったことへの後悔と罪悪感、そして夜の街頭の様子への不安がないまぜになり、ある感覚の塊として自転車をこぐ膝頭の当たりから太ももの内側を伝って腰の方へ上がってきたのを覚えている。突如、全身をえもいわれぬ快感が訪れる。それは脳天からつま先までをしばし満たした後、眼前にテレビの砂嵐のようなチカチカとした残像を残して、消えた。いまふりかえれば、あれが私の精通だったのかもしれない。そうして手に入れた「魔界の滅亡」はやはり擦り切れるまで読まれ、未だに私の手元に置かれている。知識や経験ははるかに乏しく、感受性のみで世界を理解していた時代に、あらゆるアナログ的肉体感覚と直結したがゆえの至高のファンタジー、それが「魔界の滅亡」なのだ。その時代に享受した物語は、すべての外部評価をあらかじめ超えている。だから諸君は、諸君のすれっからしの批評眼にはつまらなく思える作品に出会っても、それに耽溺する誰かの嗜好を批判するべきではない。何歳の時にその物語を体験したかというのは、非常に大きなファクターだと思う。例えば、進撃の巨人で精通を迎える者も確実にいるだろうから。話を戻そう。当たり前のことだが、私は復刻版の装丁が好きではない。使われているフォントの違いや配色のセンスには、言及するまでもないだろう。何より、表紙の絵の構図が縦にせばめられているのが、ひどく気にくわない。オリジナルは騎士の右側にもっとスペースがあり、いよいよ悪魔を追い詰めている(左側、つまり過去へ)感じが伝わってきた。しかしながら、この本が復刻された事実に比べれば、それらは些細なことだ。作者も自虐的にあとがきで言及しているように、この本を手に取るのは旧版を知っている人たちだけなのかもしれない。けれど、30年近い時を経て復刻されたことは、この作品に対する多くの人の深い愛を証明してくれた(余談だが、アマゾンで「魔界の滅亡」を購入するのは不思議な感覚だった)。私もまちがいなく、この作品を愛した一人である。本当に、ありがとう。
マン・オブ・スティール

スーパーマンが手錠をかけられ、取り調べを受ける予告編にすごく想像力を刺激されたので、視聴した。しかしながら確認できたのは、予告編を編集した誰かの素晴らしい手腕だけであった。あれっ、最近なんか予告編にすごいワクワクして試聴したら肩すかしを食った映画があったなー、なんだったかなーと思っていたら、エヴァQだった。名前のある数名の登場人物以外はすべて書割りの背景に過ぎず、派手にあちこち舞台が切り変わるにも関わらず、すごくミニマムで閉塞した感じを受ける。異星人の葛藤ばかりに焦点があり、守るべき世界が魅力的に描かれていないため、世界を守る大義は空転し、結果として観客のカタルシスが大幅に減じるという負の構造だ。あれっ、どこかでこんな構造の映画見たことあったなー、なんだったかなーと思っていたら、エヴァQだった。あとザック・スナイダーって、300の印象から絵画的な止め絵を美しく描く監督と思ってたんだけど、今回は画面がゴチャゴチャしている上にアクションが速すぎて、いま目の前で何が行われているのか非常にわかりづらい。CG技術としては凄いのかもしれないが、どの場面もまったく印象に残らない。そして、こういった素人感想にCG技術の専門家が鼻息荒く、「どれだけ大変かわかってないよ! おまえが作ってみろよ! 嫌なら見るなよ!」とか逆ギレのコメントをしそうだ。あれっ、なんか最近、そんな視聴者の感性を罵倒する映画あったよなー、なんだったかなーと思っていたら、エヴァQだった。前回のリブートであるスーパーマン・リターンズは、冒頭の野球場に至るシークエンスや、眼球で弾丸を弾き返すシーン(たぶん、範馬刃牙のゴキブリダッシュで指を折る回から強烈にインスパイアされた)など、彼のヒーローとしての象徴性や凄みをすっきりと効果的に表すことができていた。しかし今回は物語が進行すればするほどますます、CG技術の向上以外は新たな切り口が何も無いことを露呈していき、なぜ再リメイクに至ったのかが全くわからなくなっていく。もうマン・オブ・スティールはこのまま座礁させて、今こそスーパーマン・リターンズ・リブートをこそ制作するべきであろう。そろそろ地球の自転を逆回しにして時間を遡行し、恋人を蘇らせるあの名場面を最新のCG技術で見せていただきたい。あれっ、リブートを繰り返すくせに物語がぜんぜん前に進まなくてイライラするのって、最近何かで体験したよなー、なんだったかなーと思っていたら、エヴァQだった。それと主人公の外見も、これまでのスーパーマン像をわざと外してやるみたいな粗野な雰囲気で、まったく気に食わない。あれっ、最近なんか主人公のキャラデザインが前回までと違っていて気に食わなかった映画があったなー、なんだったかなーと思っていたら、エヴァQだった。感想を書いていて気づいたが、全体的に何から何までエヴァQだった。
スタートレック・イントゥ・ダークネス

なぜスタートレックがこんなにも胸にグッとくるのか考えてみた。もっとも権力を持った人間が、真っ先にもっとも危険な最前線へと向かう。彼の肉体と精神はジェダイの騎士どころではない、ふつうの人間のそれらに過ぎず、衆に秀でたものと言えば知恵と勇気と、たぶん幸運だけ。そして、どれだけ科学技術が進歩しようとも最終決戦の勝敗を決めるのは、己の拳にすべてを賭けた殴りあいである。これを現実に置き換えるならば、オペレーション・ネプチューン・スピアーの陣頭指揮を取る上半身裸のオバマが、「これはアメリカ国民の分!」などと叫びながら、同じく上半身裸のウサマッチョ・ビン・ラーディンの顔面をしたたかに殴りつけるみたいな感じだろう。あと、ベネディクト・カンバーバッチはいつ見てもオスのカマキリみたいな顔してんな、と思った。
グレート・ギャツビー

学生時代に小説は読んだはずなのだが、修辞がくどいという印象だけ残っていて、物語として感銘を得たという記憶がない。名作と凡作、嗜好品と普及品を分けるのは「かそけき」差異であって、そのわずかな違いに大きな価値を認められる者にしか届かない。当時の私の鈍かったセンサーが、年齢を重ねることによって鋭敏になったとは言わない。配役から演出から、過剰なまでの(意図的な)下品さが、原作の「かそけき」部分を濃密に煮詰めた結果、私の鈍いセンサーにも届いたということだろう。ディカプリオ目当てでの試聴だったが、グレート・ギャツビーという物語を再発見できたことは大きな収穫だった。そして、ギャツビーの持つ虚像と実像の間を1,000m級のフリーフォールで往復させるギャップ萌えの手腕には、婦女子の股間も大洪水であろう。あと、人として成長できなかった者は神になるというのは、少女保護特区に通じるテーマだな、と思った。なかなかやるじゃないか、フィッツジェラルド君。それにしてもレオ様は、死ぬときは昔からいつも仰向けに水の中へ沈んでいくなあ、と思った。あとこの作品、邦画で言うとヘルター・スケルターよね。現実のディカプリオのキャラを主人公にオーバーラップして読ませる手法がそっくり。
ルーパー

SF版「ザ・バンク」。物語の前半、あれだけ丁寧に世界観をビルドアップしておきながら、そのすべてをことごとく放棄した後半のソープ・オペラ的展開に唖然とさせられる。ブルース・ウィリスをキャスティングしたせいで撮影途中に制作費が無くなって、外部からの資金を受け入れる代わりに監督が制作の主導権を手放したみたいな裏事情を読み取らざるを得ない。「(脂の浮いたデブが提示された脚本を斜め読みしながら)ライアンちゃんさあ、気持ちはわかるけどさあ、いまどきSFなんかじゃ客は入らないわけよ。この話に足りないのはヒロインじゃない? 昼は聖女で夜は娼婦な、銃を持った経産婦とのファックがみんな見たいのよ。そして、障害を持った子どもへの愛情と家族の絆! 観客が求めているのはズバリこれよ。ライアンちゃん、君もそろそろメジャーになりたい時期だろ? わかったら、明日までに脚本なおしといて。じゃ、エミリー、焼き肉(的な、アメリカでの何か)行こうか」。主人公が死亡した瞬間に場面が巻き戻るシーンや、時間旅行に絡めた拷問のアイデアには本当にワクワクさせられたし、ある段階まではループ物の佳作としてSF愛好家に細々と語り継がれる可能性すら秘めた作品だったのに、この資本主義のブタと売春婦めが(あなたの想像です)! あと、乖離した二つの物語の接ぎ木ぶりへの落胆、それが愛するSFであるがゆえの更なるひどい落胆、なんか体験したことあったなー、なんだったかなーと思ったら、エヴァQだった。
河童のクゥと夏休み

ルパンを作った後の宮﨑駿と、クレしんを作った後の原恵一。作り続ける強度という意味で何が二人を分けたかと言えば、アニメーション技術を追求するか、作品のテーマ性を追求するかの一点であろう。結局のところ、「自然礼賛」と「人間賛歌」を語ってしまえば、つまり「生きることへの肯定」という究極の命題を語ってしまえば、我々はあとは何も語る必要が無く、その上で座して死を待つのでなければ、死そのものを語ること、すなわち宗教と近接した、普遍性とは真逆の方向へと向かわざるをを得なくなる。つまり、宮﨑駿は子を成しながらも「人類滅亡しろ」と心の底から唱えるからこそ、未だ作り続けているのであり、原恵一は子を成す前から「人間って、素晴らしい」と気づいたからこそ、もう作ることへ執着する必要が無くなってしまったのである。これはつまり、MMGF!後のよい大人のnWoにも似た、初期動機の消失と言えるだろう。あと、作品への思い入れが強すぎて、それぞれのシーンがわずかずつ冗長になって、作品全体を不必要に長くしているなあ、と感じた。それと、もし宮﨑駿が娘を授かっていたら、作ることへの初期動機は消滅していただろうなあ、と思った。
ゼロ・ダーク・サーティ

グローバル化の究極は、国を越えて殺し、国を越えて殺し返す場所だ。それはまさに、戦争と酷似した状態である。グローバル人材なんてのは、実体を伴わない書面上の言葉遊びに過ぎず、子供たちをこういう場所へ率先して送り出すべきではない。彼らが地方の小さな一都市で生活を充足できるとすれば、それをまず尊べるようにしなくてはならないと思う。あと、アメさんとコケージャンだけは敵に回しちゃいけないな、と思った。先の大戦で勝てないわけだ。
オブリビオン

よし、今からこのB級SFのセンス・オブ・ワンダーをあますところなく解説するぜ! シロディールの話かと思って試聴を始めたら、舞台はウェイストランドだった。
ムーンライズ・キングダム

つまるところ、「じぶんである」ということのどうしようもなさには手のふれようがなくて、ぼくたちはそれをそのままに、なんとか日々をやっていくしかない。ときには、どうしようもなさとどうしようもなさがあいまって、救われることだってあるのだから。もちろんその救いは、嵐の夜におとずれる風雨の高まりのような、陽がのぼればたちまち消えてしまうような、とどまらずに過ぎてゆく性格のものにはちがいない。でも、それがあったことを知っているから、なんとかどうしようもないじぶんをしのいでいけるんじゃないか。ああ、ただだれも否定しないということが、なんとむずかしいのだろう。
ジャンゴ

会話劇で高まりに高まったテンションを、突然の暴力で解放するタランティーノ節は健在で、いつものことながら座り小便を漏らすほど面白い。同監督の作品でベストに上げたキル・ビル2が、その位置を入れ替えそうなほどの勢いである。しかしながら、ヒーローであるはずのジャンゴが、シュルツ医師のキャラクターに完全に食われてしまっているのが残念だ。結局のところ、物語の最終盤でジャンゴを駆動するのは「奴隷解放以前のミシシッピ州にいる黒人」という背景的な部分であり、ドクター・キング・シュルツの用いた手法を表面だけトレースした、彼の内面に根ざさない動機だ。この物語の真の主人公はシュルツ医師であり、死を賭してディカプリオ扮するカルヴィンとの握手を拒んだ魂の高潔さこそが、人間性への賛歌をうたいあげ、彼をヒーロー足らしめているのである。その直後、ジャンゴによって行われた殺戮は、外部刺激への反射にも似た暴力に過ぎず、シュルツ医師の持っていた主人公の格を引き継ぐには至らなかった。タランティーノ監督の作劇に弱点があるとすれば、あまりに魅力的に悪役・脇役を描きすぎるので、ときに正義は説得力を失い、主人公は色褪せてしまうところだろう。黒人の主人公が白人の脇役をその魅力で上回れなかったことは、監督が意図する人種差別へのメッセージを真逆に伝えてしまいかねない。もちろん、こういう観点で視聴すべき作品ではないこともわかる。未見の諸氏はネット泡沫のバブリングに印象を左右されず、ぜひ自分の目で内容を確かめて欲しい。
パシフィック・リム

カンフーハッスルのときにも感じた、日本のサブカルの精髄を他国の人間が最も理解し、深い尊敬を持って換骨奪胎する様に腕をもみしぼりたいような思いにさせられる。ただ楽しみたい、そしてただ楽しんで欲しいという、エンターテイメントへの巨大な情熱を前にして、某福音漫画映画が見せた迷走のことを苦々しく思いだした。本邦のメディアが喧伝する「公」なる同調圧力は、ときにサブカルの作り手たちをひどく追いつめていく。実際のところ、西洋世界でのキリスト教倫理と似たスキームへの反抗心が、ロリコンのそしりを哲学へと昇華させ、荒唐無稽のそしりを政治へと昇華させた。そして己の愛を「公」に認めさせるための方法論のねじれ、出自を隠蔽しようとするねじれが、ほんの一部の作品たちを例外的な高みへと止揚したため、悪臭放つ無残なフォロワーたちを多く生んでしまったのだ。結果、「公」が是とするものとの融合だけを求める、ごく短命のキメラ的被造物が量産されていったのである。その歪んだ複雑さに比べ、積み上げた経歴で出資者をだまくらかし、まきあげたカネを湯水のように注ぎこんで、売れる売れない度外視のおたく趣味を完遂したギレルモ監督の確信犯的手口は、もはやさわやかでさえある。これはそのまま、西洋と東洋の対比、大人と子供、あるいは成熟と未成熟の対比のように思えてならないが、閑話休題、ともあれ本邦のマスメディアは、もういい加減、おたくたちを愚弄するのを止めよ。取材と記事のフォーマットが定まった白痴の自動書記a.k.a.プロ・アマの野球報道をいくら垂れ流そうとも、我々は文句を言わない。人気漫画の実写化にアイドルを配しても、笑って見過ごそう。だからもう、本邦のサブカルを情けないもの、大人の視聴に耐えないもの、いつか卒業すべき一等地低いものと刷り込み続けるのを止めよ。いまある才能が貴方たちにたわめられ、その伸びやかさを失っていくのが、私には忍びないのだ。けれど、エヴァンゲリオンがパシフィック・リムになれなかったことを、ただ口惜しく思う。
マクロスFB7

オマエら素人さんはマクロスってえと、初代とかプラスとかゼロとかフロンティアとかをあげるんだろうが、オレのような玄人に言わせりゃ、ぜんぶ女子供のお遊びみたいなもんさ。セブン一択、これしかない。朴念仁のキチガイ主人公にチンクシャヒロイン、昭和の遊園地のパンダほども動かない戦闘機、4クールもあるくせに三分の二ほどが不要な話数の上に未放映の話さえいくつかあって、おまけに別に放映されなくても大筋の理解にゃ、まったく支障がない。予算もCG班も作曲家も、良い作品にするため考えられる要素はことごとくプラスに取られて、まさにダメロボットアニメの大三元の二乗、日曜朝のお目汚し、再放送なんて望むべくもない。だけど、DA・MEじゃない、DA・MEじゃない、ファイヤーボンバー、DAMEじゃない。オマエらさあ、マクロスってどれも歌で異文化交流する話だと思ってるだろ。でもじつのところ、歌で弱らせた後は、やっぱミサイルでブッ殺してんだよ。歌を聞いて恭順の姿勢を示した少数だけをゆるして、残りはぜんぶブッ殺してんの。これって、まんま米帝のやり方じゃん。マクドとハリウッドで相手の文化土壌を弱体化させてからぶっといミサイルぶちこんで午後の散歩みたくアーミー送りこんで制圧してさ、全然おなじじゃん。でも、セブンだけはちがうの。ほんと、歌だけなんだよ。ブチこむものは歌しかないし、身を守るものも歌しかないし、歌がきかないと主人公、アッサリやられちゃうのよ。あれっ、これってどっかの国のやり方とまるきり同じじゃん。特殊な文化バリヤーだけを発し続けて、そこに共振すれば仲間になるのは勝手で、もし通じなきゃ粛々と殺されていくだけ。つまりさ、数あるマクロスの中でセブンだけが唯一、西洋史観のくびきから解き放たれてるのよ。これしかねえって思いこんだキチガイのキチガイはさ、感染力があるんだよ。このキチガイじみたセブン押しのテキスト読むだけで、なんとなく伝わんだろ? なに、ツー? ファック・ユー、ブチ殺すぞ……!! ありゃ、真性のそびえたつクソだ!
ドラゴンズクラウン

まだノーマルをクリアしたばかりだが、久しぶりの正統的な横スクロールアクションにワクワクと胸を踊らせている。しかしながら、いま感じている高い評価がはたしてゲームの内容に向けられたのものなのかどうか、世代的に郷愁がはるかに勝ってしまっていて、自分では判断できないでいる。このゲームを楽しんでいる現在というよりは過去の感情の追体験が半分くらいになっていて、ちょうどファイナルファイトとかゴールデンアックスとかD&Dとかの筐体を旅先の旅館のゲームコーナーで見つけて、ついプレイしてしまうときの気分に近いのかもしれない。古びたゲームコーナーの持つ情動のタイムマシン機能が、私にとってのドラゴンズクラウンなのだ。世界三大ジャクソンが「マイケル・ジャクソン」「ピーター・ジャクソン」「スティーブ・ジャクソン」であることは論を俟たないが、まず「ソーサリー!」ノリのテキスト、イラスト、アルファベット三文字魔法にグッと来る。キャラ選択画面でディアブロ2を思い出し、衛兵には「スタァップ!」と呼び止められ、仲間が死ぬと「CONTINUE?」の表記が出て、道中の遺骨は「膝に矢を受けて」しまっている。ちりばめられた小ネタが、どれもいちいちグッと来る。本当にゲームの好きな誰かが、本当にゲームが好きで作ってる感じがひしひしと伝わってくる。80年代の子どもたちにとってはるか夢の未来であったはずの21世紀が色あせた現在、すべてのトレンドに敢然と背を向け、あえて横スクロールアクションを製作しようと考えたその執念、もしくは愛情に深い感動の念を禁じ得ない。最近のゲームキッズにとっては、画面がゴチャゴチャして何をやってるかわからないのかもしれないし、キャラの動きも不自然なのかもしれないし、アクション性もそれほど高くないのかもしれないし、アイテムのために少ないステージの周回を繰り返すだけの作業ゲーなのかもしれない。しかし、オッサンたちにとって、これはとても大切なゲームだ。タバコ臭いゲームコーナーの一角で、コンパネに飲みかけのビールを置いて、甘くなったレバーとボタンを叩きながら、懐かしくて、でももう戻れなくて、涙ににじむ10カウントの画面へ連コインする、そんな記憶のゲームなのだ。サーバー側に管理されたデータ、エミュレーターでいつでもプレイできるレトロゲー。そうじゃないんだ、そうじゃなかったんだ。あと半世紀もすれば、ゲームコーナーの記憶ごと、ゆるいコンパネの手触りごと、データ的に寸分たがわぬはずのエミュレーションでは決して再現できないあのゲームたちは、オッサンたちと共に世界から永久に消滅するだろう。それは、白人たちに追われたインディアンのような必然なのだ。そう、「おれたちは滅びてゆくのかもしれない」。
HK

周辺の状況を含めて、全体に漂う内輪受けの感じに、すごいモゾモゾした。ほとんど悪ふざけのアドリブが「オッケー! ××チャン、サイコー!」とか言われて、そのまま現場で採用されてる感じ。映画批評サイトの感想とか大手ネット通販のレビューとかで、3名ぐらいの評価者が5点満点中4点をつけてる感じ。爆笑に両手を打ち鳴らしながら、「オイオイ、なんでコレ、ブルーレイ版ださないの!」とか書き込んでるその感じに、なぜかかつてのテキストサイト周辺のアングラノリがフラッシュバックして、悶絶した。「なに言ってんの、小鳥猊下こそがアルファブロガーでしょ!!」みたいな大騒ぎのファンを「いいから、もうオマエ黙れよ、殺すぞ」って赤面しながら後ろから小声でたしなめてるような感じ。アタシ、恥ずかしい!
クラウド・アトラス

"My life is far beyond imitations of me."監督の好きなモチーフと撮りたい場面をてんこ盛りにブチこんだ、超絶・寄せ鍋映画。6つの物語が同時進行する3時間を混乱なくスッキリと試聴できるのは、編集の巧さゆえか。ぜんぜん話は変わるけど、おれ最近さあ、スカイリムにダウロードコンテンツが3つも追加されてるのに気づいて、またぼつぼつプレイしてんのね。このゲーム、MODっていう有志の追加プログラムがあって、ゲームの中身をいろいろ好きにいじれんだけど、あんまやりすぎるとCTD、クラッシュ・トゥ・デスクトップつって、クライアントごと落ちるようになったりするの。あとプレイ時間が累積してくと、これまたセーブデータにゴミみたいのが溜まっちゃって、ゲームが遅くなったり止まったり、しまいには起動しなくなったりすんの。おれ最近、年くってきて特に思うんだけどさあ、なんかこれまでの経験からゴミみたいのが体の奥底に溜まってきてて、ひとつひとつは無視できるくらい小さいんだけど、MODの残りカスみたくそれが全体を鈍らせていってる感じ、あるんだよね。ああ、これが溜まってって、おれもいつかCTDすんだなってなんとなく思うわけ。でも、スカイリムと違ってクリーンインストールとかニューデータでスタートとかできないからさ、まさにファミコン世代への上からの批判に追いつかれはじめてるって感じなの。で、クラウド・アトラスだけど、CGとかVFXとかバンバン使って、同じ俳優の肌の色や性別まで変えたりして、魂の平等と輪廻を描いてんだけど、マトリックスの監督がいつのまにか性転換しててさ、じぶんの経験からたどりついた思想とかを反映してるんだろうなって考えさせる仕上がりなわけ。自分の悪行を反省したら転生で魂が次第に浄化されて、ついには善玉になるみたいなやつで、ぶっちゃけ、すごい仏教的な世界観なんだけど、おれ、ぜんぜんそれにノれなかったっていうか、うさんくさいなって思ったのよ。たぶんキリスト教の枠組みがガチガチにある国の人だから、そっから外れた東洋的な考え方に救済されるっていうか、ホッとさせられる部分、あったと思うんだよね。でもさ、キリスト教的な復活も仏教的な輪廻も、どっちも同じくらい救いとしてはうさんくせえなあって思っちゃう。スカイリムと同じで、ニューゲームで始めてもデータのゴミが積み重なって汚れてって、クラッシュしたあとに全体へ吸収されてまた生まれ変わるって、そんなの繰り返したって汚れが濃縮し続けるだけじゃん。この映画じゃ行為としての悪が明確に定義されてんだけど、悪ってのはもともと自然界には存在しなくって、つまるところ人と人との関係性において生じる何かを指してるんだから、人間が人間である限り、悪の概念は消滅しないのよ。だったら幼年期の終わりとかエヴァみたく人の形態を捨てるか、ワールドイズマインとか女神転生4のバッドエンドみたく人なるものを消滅させるってのが、救済っていうならいちばんしっくりくるような気がする。これに対してキリスト教の復活はいまの意識の継続を願うわけだから、輪廻のほうがずっと上等な気はするけど、つきつめるとどっちもどっちだよね。どの宗教でも死への解釈が輪廻と転生に分かれるのは、自我の消滅に恐怖が伴う文化なのかどうかってのが、その理由として大きいんだろうなあ。岩と砂漠の中で死ぬのと、水と森の中で死ぬのとでは、やっぱ死の受容に対する理屈づけって変わる気がする。個人的にはさ、たぶん意識は消えるだろうと思ってるけど、身体を構成する分子とかまでは消えようがないから、別のかたちで何かの中では続いていくんだろうなとは感じる。でもそれって、あんまりにも物語じゃなさすぎるよね。どっかで書いたけど、世界で最初の物語って、老いた生者が若い生者に語る死の意味づけだったと思うんだよね。いまの自我を保ったまま、天国で72人の処女とヤリまくるとかって物語、身もフタもなくて笑っちゃうけど、すごい人間らしいじゃない?とりとめもなく話したけど、クラウド・アトラス、SF好きならぜひ見ておくべきでしょう。いろいろ考えさせられます。あと、りんこ、演技が見られるようになったな、もうこれまでみたいにまんことかうんことか呼べないな、と思ってたら、あれ、りんこじゃないの?
 

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