世界はあまりに膨大になりすぎたため、ただの羅針盤にさえ重大な意味がある。

愛のうた


ハート・ロッカー

USアーミー、かく戦えり。彼らが戦ったのが、いかに彼ら自身の恐怖であったのかがわかる。アメリカは映画を撮影することで現実の贖罪とする。だが、覚えておかなくてはならない。アメリカは同時に、映画を撮影することで歴史改竄を行うことを。山男エンド(俺たちゃ町には住めないからに)は、シナリオ的に収まりが良いのかもしれないが、イラクの実状に対しては、あまりに冒涜的過ぎた。
鈴木先生(10)

“愛のうた”は、「鈴木先生」の第1巻から始まった。はたして、何人がこの10巻までを追い続けているだろうか。現実を題材としながら、もはやファンタジーと称してよい中身にも関わらず、そのボルテージは依然として高まる一方である。そして、読むときに呼吸が止まり時計を見なくなる瞬間が訪れる、すれっからしの享楽乞食にとって数少ない作品の一つだ。さて、同じ学校を舞台にしたファンタジーという意味で、この作品が対比されるべきは、誰も指摘しないのが不思議なくらいだが、諸君がスメリー・マウスで萌え萌え言うところの「けいおん!」である。前者が「言葉が万人に有効である」というファンタジーを忍ばせているのに対し、後者は「女子の青春が男子無しで充足できる」というファンタジーを忍ばせている。違いは、それらのトリックを用いて作り手が描きたいと考える現実の側面なのだが、あえてその解答は諸君へ残しておきたい。ページの半分以上を文字が埋めるこの異様な群像劇を、君も体験してみないか。
マイレージ、マイライフ

いい脚本、いい俳優、いい映画。語りすぎず、じわりと沁みる。なあ、知ってるか。三十代の監督が撮ってんだぜ、これ。孤高を気取るnWoを本当の意味で絶望的な気持ちにさせるのは、こういう作品なんだ。
MOON

良いSF作品の条件とは、若さと反体制と、何より人の孤独が描かれていることだ。この映画には、若さと反体制と、嗚咽にも似た孤独がある。監督がデビッド・ボウイの息子だというのだから、ちょっと出来すぎじゃないか。
ゴッド・オブ・ウォー3

壁面を覆う100インチ超のモニターと7つ以上のスピーカーを備えたロスの大邸宅に住まうロックスターの俺様は、例によって片方の口角を上げた薄ら笑いでプレイを開始したのであるが、開始直後から全速全開の尋常でない迫力と熱気に、俺様の表皮の鱗を垂れ流れる白濁した液状の批判精神は、たちまちすべて蒸散したのだった。14インチブラウン管と1つのスピーカーを備えたワンルームマンションに大家族で住まうアジア在住の貴様らが、よし、このゲームへ何か人がましい言及をしたとして、もはやそれはレビューとして何の正当性も持てないだろう。だが同時に、小生のように手首を切ると青い血が垂れ流れる人間の高貴な言葉と等価の情報として、貴様らの部族の方言で語られた卑賎な言葉がネットの悪しき平等の上へ垂れ流れるのだという事実に思い至り、慄然とさせられたのである。その状況を俯瞰できる誰かがいるとすれば、王の人生と乞食の人生を、ただどちらも生命であるという観点から同じ天秤にかけるような、グロテスクな無意味さを見ることになるだろう。しかしながら、腋下や外性器への積極直舐めを誘発するような婦女子を三次元上にモデリングする技術に関しては、まだまだアジア在住の貴様らに軍配が上がることを、貴様らの名誉のために付け加えておく。主観的な省略の妙味こそ、本来は存在しない婦女子の魅力を顕現させるというからくりが、奴ら紅毛人にはわからぬのだ。あと、主人公の名前が女性の外性器の突起みたいだな、と思った。
サックス博士の偏頭痛大全

週末ごとに偏頭痛を迎える偏頭痛人格の小生は、いま正にひどい偏頭痛を耐えながら、虫の息でこれを紹介するものである。この本にはあらゆる症状・症例が網羅かつ言語化されており、もし君が偏頭痛を持病とするならば、その深い孤立感を大いに弱めてくれるだろう。誰かにそれを説明したいが、説明するのが難しいと感じたことがあるならば、ぜひ一冊を本棚へ備えておくとよい。また、偏頭痛など薬にもしたくない君にさえ、人体の高度なメカニズムに対するセンス・オブ・ワンダーを与えてくれる名著である。
アリス・イン・ワンダーランド

「トウの立ったアリスが最後に経済的自立を果たす」という一行まとめを聞いただけで、謎の韓流スター"ペ・ヨウジョン”の皆様は怒りのあまり鼻血を吹き、ネリチャギでちゃぶ台を叩き割るに違いない。映像技術とかシナリオとか、もうそういう範疇を越えた由々しき原典冒涜である。例えるなら、柘榴から生まれてきた桃太郎が犬と獣姦におよぶくらいの暴挙であり、万人の評価を前にしてなお、小生はひとり抗議のこぶしをティム・バートンに対してふりあげるものである。しかし、アリスが鎧を着て剣(賢明なnWoファンの諸氏には、これが何の象徴かおわかりですよね?)をかざした場面では「おお」とか言いながら、ちょっとだけこぶしを下ろした。あと、なんや、マッドハッターって。いかれ帽子屋やろが! 馳夫の中つ国をヒイヒイつらぬき丸やろが!
インビクタス

ようやくモーガン・フリーマンがネルソン・マンデラを演じたことに、誰もが溜飲を下げたことと思う。"Your country is proud of you." "Listen to your country." スポーツに預けた単純かつ力強いメッセージに胸を打たれた。人は、自分以外の何かのために働いたとき、その力を最大に発揮できる。この実感を与えられないまま生を終えることは、悲劇に他ならない。それにしても、こういうのを見せられると、つくづく映画芸術は本邦の持ち物じゃねえなと、元・名誉白人で政治嫌いの一おたくは極東で感じるのであった。でも、フォレスト・ガンプのノリで歴史映像を改竄した冒頭だけはどうかと思った。
第9地区

突っ込みどころは満載だけど、それをあえて指摘したくないほどに面白い。グロな地球外生命体とかに仮託して、きれいなものが実は汚く、汚いものが実はきれい、みたいなテーマを描くときのSFって大好き。ただ最近、ヨハネスブルグ方向へアフリカのイメージが舵を切りすぎているので、そろそろ誰かキリンヤガを映像化してください。あと、低予算でSF映画作ったら何でもブレードランナーって言っとけって売り方、そろそろ止めにしようよ。
父として考える

挑発でフックを作り集客につなげた初期のnWo風に記述すれば、私はずっと、子どもも伴侶もいないのに人文・社会学系の言説で飯を食う連中を胡散臭く、全く信用に足りないと考えてきた。その類の人々は己のライフスパンを越えた先についてめったに思考しないし、例えしたとしても我が身に引きつけての切実さは求めるべくもない。彼らは人類という名の船へ一時的に乗船した客に過ぎず、その言葉が覚悟に欠け、何より決定的に軽いのは、己の死をもってここから下船できると心のどこかで考えているからだ。自我の消滅が世界の終焉を意味するがゆえに、人類の継続を笑止の絵空事としてとらえている。そうすれば、どこまでもシニカルに生命の営みを嘲弄できるし、あるいは無謬の傍観者に徹していられる。この本を読んだとき、常の遠雷ではなく、初めて鼓動としての声を聞いたと思った。子を持つとは、一個の意識の消滅を越えた先に不滅を信じ、善と永遠を信じる愚かさに添い遂げることである。
マッハ!弐

雑な編集といい加減な音楽とペットターイ・ウォンカムラオが真顔で演技する際の関西芸人コント感に没入を妨げられた1に比べて、カメラワークやストーリーの面ですごく洗練されててびっくり。何より、安い人件費(生命の価値的な意味で)に支えられたトニー・ジャーの超絶アクションは、あらゆる雑音を越えて、ただ「人体って、美しいなあ」と感じさせる域に達している。あと、ちゃんと芝居ができるようになってて(憤怒のみだけど)、失踪事件が役作りに深みを与えたのかなと思った。ジャッキー・チェンが動けるうちに共演してください。
インセプション

結論から言えば、本編の主要な映像をコラージュした配給会社による予告編がいちばん面白かった。君は「何度も見る価値がある映画」という評論筋のふれこみに騙されてはいけない。なぜなら、物語が難解なのではなく、設定が難解であるに過ぎないからだ。以下の括弧内は読み飛ばしてもらって全く問題無いが、「ゲメレ星人の右脇の下から伸びているのは我々で言うところの生殖器である。彼らは我々のようには、その露出を躊躇しない。なぜならそれは、文化的役割を持つ第三肢と考えられているからである。重力方向に対してそれを垂直に三十度捻りながら性交を行えば快楽目的の情事となり、三十五度を越えて捻った場合は本来の目的、すなわち純粋な生殖の合意となる。ただし、ゲメレの母星における重力は直下へ向かうが、その衛星においては天頂へ向かうことを念頭に置かねばならない。さらに、150日周期で母星と衛生の重力方向が入れ替わることは、触れるまでもない常識である」と同程度に混みいった設定を開始直後から一時間足らずで叩き込まれ、後に訪れるトリックの衝撃と物語の感動がその設定の理解度に大きく依拠するという作り方になっており、SFとミステリーの融合はギャグにしかならないというのは、改めて真理であると気付かされた次第である。それと、「マトリックス以来の新しい映像表現」って、ほんとに北米メディアが言ったの? 英語で記述されてる第三世界の掲示板から適当に拾って極東メディアが翻訳したんじゃないの? ウォシャウスキー兄弟つながりで言えば、ザ・ウォーカーがたちまち上映終了になって、あちこちインセプションだらけになったのもすごく気持ち悪い。つまり、ケン・ワタナベの出演こそが本邦における高い評価の理由なんじゃないの? なんとなれば、我々は学校で、職場で、ネットで、あるいは家庭でさえ、愛国心を検閲される社会に生活しており、 抑圧されたその感情は常に出口を求めているため、いったんそれが見つかれば高圧で噴出するのである。例えば、芸術とか、スポーツとか、もしかして差別とかね。あと、「最後にコマが倒れるシーンをフィルムに入れなかったのは、深いよね」としたり顔で語る学生カップルの男の方、ちょっとこっち来い。直々にチョウパンいれてやるから。
シャーロック・ホームズ

今更ホームズをやろうというのだから、何か尋常ではない切り口を発見したのだろうと思っていたら、やっぱり尋常ではなかった。原作のマイナーな要素を切りだして造形したキャラクターが、いずれも立ちまくっている。しかしながら極東在住のおたく諸氏の抱く感想は、その大勢が「不二子」ないし「勇次郎」へと帰着するに違いない。シリーズ化希望。
Dr.パルナサスの鏡

故ヒース・レジャーを取り巻く友情とか、テリー・ギリアムの不幸体質とか、周辺状況を楽しむ作品だと思った。原題でもある博士の想像力の世界に、視聴前期待していた精神病すれすれの妄想とか気狂いの夢みたいなブッ飛び方は見られず、どれも妙に理に落ちる感じだった。韜晦が深みを生む監督の作風からすれば、こういう題材選びは逆に底が割れてしまう感じがして良くないのになあ、と無責任に考えた。
ゼロの焦点

主に洋画と海外SFで青春を空費したところの小生は、日本人の記述する原作など当然未読である。「松本清張=赤いシリーズの胸やけ+社会情勢に根ざす動機」、げぃか、おぼえた。しかしながら、現代に松本清張の存在できない理由がわかったことは収穫である。ミステリーはトリックよりも犯人の動機がいかに多くの共感を呼ぶかが最も重要だと考えるが、万人にとって有効な「社会的動機」はもはや本邦には存在しないことがそれだ。戦後という時代背景が不幸を大文字化していたがゆえの松本清張であり、例えば君とぼくが抱くところの、魂の深奥を二次元につかまれながら同時にその事実を深く恥じる感覚など下の世代には理解できないだろうし、さも大文字の不幸であるかのようにマスコミが喧伝するところの、安い賃金と不安定な雇用で飼い殺されている君とぼくなども、実のところ上の世代にとっては対岸の火事を眺めて、せいぜい火元の無用心を囁きあうくらいの内容に過ぎず、それらを動機とした犯罪には多くの非難か失笑が返ってくるだけである。現代の不幸の正体とは、各人の抱く不幸が世代で切り分けられているがゆえに、総体としてとらえた場合、少数の共感をしか得られたように思えないという、体感の欠如なのだ。おそらく次の松本清張が生まれるのは、多数決で勝利できる不幸が本邦に現出したときであり、もしそれが戦争でないとするならば、宇宙人の襲来くらい思いつかないなあと、主に洋画と海外SFで青春を空費したところの小生は夢想するのであった。あと、ヒロスエ、だいこん、げぃか、おぼえた。
 

<< previous page | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 | next page >>