猫を起こさないように
月: <span>2025年2月</span>
月: 2025年2月

漫画「二階堂地獄ゴルフ(6巻まで)」感想

 温泉とサウナと漫画喫茶が複合したような施設で、二階堂地獄ゴルフを6巻まで読む。例によって、エスエヌエスで1話が話題になっていたのを思い出したからですが、結論から言うと、男性作家の悪い部分の煮こごりみたいな作品でした。直近に、メダリストダイヤモンドの功罪などの良質な少女漫画を経由したせいもありますが、すべての男性が多かれ少なかれ持っている異性への偏見(性的な)と、昭和の倫理観を令和にアップデートしようとして大失敗した臭気が、全編にわたってただよっているのです。なぜか「欧州における香水文化の発展は、下水道の整備が不充分なことによる、不衛生に起因するものであった」みたいな一節がアタマをよぎりましたね。本作の感想を述べるにあたり、福本作品との個人的な接触履歴をまず開陳しておくならば、天を全巻読破し、アカギの6巻までと最終話だけを読み、カイジは第1部終了までを追いかけて、以後は疎遠になったぐらいの不熱心なファンです。天の最終章を下敷きにしたパロディを書いたこともあるので、けっしてキライな作家ではないのですが、麻雀漫画のオススメに福本作品を挙げないことからも、小鳥猊下の感じている距離感は、みなさんに伝わっているかと思います。西原理恵子だったかが、彼の漫画群を評した「まちがった算数の計算式による頭脳戦」みたいな表現は、じつに正鵠を得ていて、摩訶不思議に私淑するファンの多いアカギにしたところで、「配牌とツモがいいことを前提にした、ご都合主義の奇矯な戦術披露」以上の感想は出てきません。もし漫画の神様(not手塚治虫)が、この寒風ふきすさぶ四畳半に現れて、仮に「1つの完結した作品を漫画史から消滅させることを代償に、1つの打ち切り作品を完結まで連載させてやろう」との申し出があったとすれば、秒でアカギを歴史から抹消して、度胸星を再開させますからね!

 いまゴールデンカムイの作者が、打ち切りになったアイスホッケー漫画のリベンジ・リメイクをしているように、近年の福本伸行は”熱いぜ辺ちゃん”あたりまでの「売れなかった人情モノ路線」へ再チャレンジしているように見えるし、アカギの娘?が主人公の新作ぐらいから、「これまで避けてきた女性キャラの描写をキチンとする」ことを創作の裏テーマとしているように思います。この2項目を補助線として引くと、二階堂地獄ゴルフという作品をより深く理解できるのではないかと考えながら、読みはじめました。さすが売れっ子の人気作家だけあって、物語の設定と序盤のビルドアップだけで、グイグイと読み手を引きこんでいきます。3巻までは近年の同氏の作品と比べて、ストーリー展開のテンポも早く、「これは、新境地を期待していいのかも?」とさえ感じていたのが、4巻冒頭から突如として「まちがった算数の計算式」によるトンデモ頭脳戦がはじまり、6巻を読み終えるころにはすっかり、男性作家による悪いストーリーテリングの総天然色見本ーーキャラはブレブレで一貫性がなく、ストーリー展開はその場その場の思いつきーーであるところの「いつもの福本漫画」へと印象は落ち着きました(続きを手にとることは、もうないという意味です)。二階堂地獄ゴルフのストーリーをメダリストで例えるなら、「バッジテストに落ち続け、司先生は選手に復帰して去り、18歳をひとりでむかえた結束いのりの話」であり、ダイヤモンドの功罪で例えるなら、「少年野球の監督に車内で肛門性交を強要され、トラウマで野球ができなくなった綾瀬川次郎の話」であり、本質的に「時間と紙幅を費やしまで、わざわざ語る必要のない話」になっているのです。なぜって、そんなみじめな話は、われわれ凡人の生きている現実そのままで、虚構の称揚ぬきで物語にする価値なんて、微塵もないからですよ!

 たしかに、漫画家として売れるまでの苦労はあったのかもしれませんが、いまや国民的な人気作家となり、横になっているだけで印税と利子で大金が転がりこんで(銀と金!)くる、現世での大成功を収めたイケメンなのですから、わざわざ社会の掃きだめに巣くう醜い容姿の男性をとりあげ、いたずらに不幸にさせる漫画ばかりを執筆するのは、札束の盾に守られた安全圏から”鉄骨渡り”の愉悦を味わうためでないとすれば、マゾヒスティックな性癖に由来した不謹慎きわまる執拗のいじめ行為にしか、もはや見えないのです。もう還暦をとうにすぎていらっしゃるでしょうから、そろそろ連載中の作品はすべてテキトーにーーだれも続きを待ちわびていないのでーー終わらせて、新人賞を受賞したあとの長い下積み時代からはじまり、麻雀誌で「バブル時代と寝た」あと、一般漫画での大ヒットへといたる、福本版アオイホノオに着手する人生の季節ではないでしょうか。そのほうが現状よりも、よっぽど作者と読者の双方にとってウィンウィンになると思いますよ! あと、温泉とサウナと温泉喫茶が複合したような施設に置かれていた二階堂地獄ゴルフの単行本ですが、3巻までは読まれすぎて分解しそうなほどメロメロになっているのに対して、4巻以降はほぼサラピンの状態で「た、大衆から虚構に向けられた批判の、アナログによる表現形式……!!」となりました(キライな表現)。

漫画「ダイヤモンドの功罪(7巻まで)」感想

 「巨人・大鵬・卵焼き」世代の父親は、息子が小学校にあがると、”とりあえず”近所の少年野球団やリトルリーグへ入れるものです。当時の土曜日は半ドンで授業があったものですから、その少年は毎週の貴重な日曜日を野球の練習に費やすハメになります。入団初期の歓待の季節が終わり、様々なポジションをたらい回しにされるうち、周囲の失望がつのっていくのを肌で感じながら、辞めるという選択肢はあらかじめ封じられています。そうして、「親の好きなものを子は嫌いになり、親の嫌いなものを子は好きになる」の法則どおり、野球を心の底から憎む人間の”いっちょあがり”ーーいやだなあ、ぜんぶ一般論ですよ!ーーとなるのです。野球をめぐる今昔の印象を述べておくと、ダラダラとゴールデンタイムを2時間も3時間も占有していた野球中継が地上波から消滅したのは人類の叡智を証明するものですが、オータニ・ハラスメントなる言葉を生むほど加熱したMLB報道はメディアの不明と変化できなさを如実に表していると感じています。ともあれ、昭和時代に幼少期を過ごしただれかは、野球なる遊戯に対してなんらかの態度を表明せねばならず、ほがらかな無関心でいることは、けっしてゆるされなかったのです。そんなわけで、きょうはウッカリ読んでしまった「ダイヤモンドの功罪」について、旗色を鮮明にしなくてはなりません。ちなみに、野球漫画の体験の更新としては、キャプテン以来となります(タッチは恋愛漫画なので、ノーカン)。

 温泉とサウナと漫画喫茶が複合したような施設でこのタイトルを見かけ、以前にエスエヌエスで1話が話題になっていたのを思いだしたことと、トラウマのカサブタをはがして血がにじむのを見たいという被虐の欲望から、1巻を手にとったのが運の尽きでした。帰宅後、すぐさま既刊全巻を一括購入して読破した結論から言えば、本作はまぎれもない”ホンモノ”であり、過去の古傷からの大量出血であやうく死んでしまうところでした。フィクションの筋書きが出つくして飽和状態をむかえている現在、まだこんな鉱脈が残されていたのかと、感心することしきりです。ダイヤモンドの功罪を低級なほうの虚構で例えれば、「大人がしっかり描けていて、不幸が予定調和的ではない、タコピーの原罪」であり、高級なほうの虚構で例えれば、「今西良が持つ人を狂わせる妖艶な魅力を、野球の才能へと置換した、真夜中の天使」とでもなるでしょうか。本作に描かれる様々な感情は、どれもじつにヤオイ小説的であり、かつて小説道場で栗本薫を狂喜させた”おすもうJUNE”ーー関取どうしの男色モノで、セックスの2回戦を「2番もあるんだぜ」と表現ーーがなぜか脳裏をよぎりました。けっして上手な漫画とは言えず、人物の描きわけも髪型と髪色と虹彩だけなのでたいそう混乱するし、構成やコマ割りにとくだん目を引くものがあるわけでもありません。ただ、才能の魔性に魅了されて狂っていく大人たちと、その熱病にあてられて関係性を壊されていく子どもたちの心理描写が、おそろしいほど真に迫っているのです。

 特に、U-12日本代表のセレクションへ無断で動画を送りつけた少年野球の監督との車中におけるやり取りは、いまだおのれの魅力に気づかぬ無垢なる少年と、狡猾な野獣と化した大人との間にある淫靡な力関係が濡れ濡れと匂いたっていて、あまりのエロティックさに背筋へ電流が走りました。それに続く、元プロ野球選手のコーチが圧倒的な才能を前に我が子への興味を失い、息子に野球の才能が無いのは「不倫の托卵」だからではないかと妻に言い放つのを、本人が部屋で聞いてしまう場面は、かつてヤオイ小説と呼ばれたボーイズラブに描かれていた、文学的深淵と同じ領域にまで達しています。本作に遭遇してしまったことで、「野球の才能を見限られ、両親の関心が他のきょうだいに移った瞬間」や「野球の得意な友人と自分の父親が、楽しそうにキャッチボールをする光景」が記憶の底から数十年ぶりによみがえり、おのれのうちにまだ残されていた「かわいそうな子ども」を発見して、嗚咽をともなうほどの大泣きをしてしまいました。この作者はたぶん女性で、「野球狂いの父親の影響を直接には受けず、兄か弟の野球遍歴を客観的に見つめることができた」というバックグラウンドを持っているような気がします。本編もそうですが、単行本のオマケ漫画のワチャワチャした感じが、男性作家では表現できない読み味になっているからです。社会通念に由来する読者からの根づよい偏見を避けるため、「つるまいかだ」や「平井大橋」などのジェンダーレスなペンネームを使いながら、かつてはBLや少女漫画がオハコとしていた細密な心理描写を少年誌や一般誌で再現するーーメダリストに続き本作にふれて、少女漫画は衰退したのではなく、新たな大地に種をまいて、新たな生命を芽ぶかせ、その歴史的な役割を終えたのだなと強く感じました。

 今後のストーリーですが、デビュー作や読み切りで描かれた未来の時間軸へ合流していくと仮定するならば、「綾瀬川が野球を辞める区切りと決めた試合において、大和くんがことごとく彼からホームランを打ち、野球を続けざるをえなくなる」という展開になるのでしょうか(さらに時間が進めば、ネタバレを避けて言うなら、フィールド・オブ・ドリームスになる)。いずれにせよ、作者はおそらく女性であり、心理描写が少女漫画の文法に沿っていて、突発の男性的な衝動によって物語や主人公を壊される(シンエヴァ!)心配がないのは、大きな安心材料だと言えるでしょう。ダイヤモンドの功罪の作者が、例えば新井英樹ではなくて、本当によかったですね! もしそうなら、タコピーのハイパー・アッパー・バージョンな「予定調和の不幸」で綾瀬川の野球の才能を、彼の人生ごとグッチャグチャにしたでしょうから(RINを想起)! あと、関西弁が関西人から見ても自然なのは好印象で、アニメ化のさいはキチンとネイティブ・オオサカン、あるいは子役をゼロからオーディションしてキンキィ・キッズーーやだなあ、「近畿地方の子どもたち」って意味ですよ!ーーをそろえてほしいと思いました。

雑文「少女漫画について」

質問:小鳥猊下は少女漫画に詳しいように思います。ぜひ語っているところを見たいものです

回答:栗本薫の薫陶ーー薫の薫(笑)ーーを受けて、ヤオイ小説と少女漫画を読みはじめた人物であり、いずれもが純粋に少女をターゲットにしていた時代に、強い郷愁を抱いております。思いつくままに作家名をならべてゆきますと、竹宮恵子、萩尾望都、吉田秋生、清水玲子、日渡早紀、成田美名子、川原泉、明智抄あたりの作品を愛読してきたぐらいの、きわめてライトなジャンル・フォロワーにすぎません。いにしえの感覚から「赤白青の帯が表紙にあるものは、すべて少女漫画」ぐらいでいましたが、令和の御世において少女漫画なるカテゴリはBLとマージして、ほぼ消滅してしまっているように思います。栗本薫が一瞬だけ復活させた小説道場・ご隠居編において、幾度も「ハーレクインあまあまらぶらぶセックス」なる言葉で揶揄されていたように、欠損家庭に由来する思春期の少女の自己不全感を、繁殖の不可能性から社会に拒絶される「男と男の性愛」に仮託した、切実な魂の救済だった物語類型が消滅した結果、BLと少女漫画のあいだに明確に存在していた隔壁が無くなり、「男と女」に置換しても特段に支障の無いドぎつい性欲ベースの作品群が、すべての年齢層をひとからげにした「女性向け」として、いまや市場の主流となってしまっています(かろうじてそうでないものも、少年漫画の設定やストーリーを少女にすげかえただけにしか見えません)。本来なら、「推しの子」や「メダリスト」は白泉社レーベルで発掘されて、少女漫画として売りだされるべき作品だったと思っていますが、一般誌からの発表となってしまったのは、ジャンルそのものの衰退が原因であると指摘できるかもしれません。いまや、かつて少女漫画だったものは、思春期の少女の精神をセラピーするものではなく、きつい言い方をすれば、大人の女性とその予備軍の肉体をオナニーするポルノへと堕しているのです。ジャンルの器が壊れて、内容物が垂れ流れている現在、試みに小鳥猊下が再定義を行うとするならば、「少女漫画とは、作者の性欲が女性に向いていない作品である」とでもなるでしょうか。「パタリロ」から「メダリスト」までを包含する美しい公式のように思えるのですが、識者のみなさんによる実地の検証を待つことにしましょう(余談ながら、エロ漫画に出自を持つ人物の一般誌に掲載された漫画を家人にすすめたら、驚くほど猛烈な忌避感を示されたことがあり、「言語化不能の見えざる性欲」に対して、男性諸氏はもっと意識的になるべきかと愚考します。特に、ヨネヅ君ね!)。ともあれ、少女漫画の過ぎ去った全盛期へ哀悼を示すため、いまこそ「カリフォルニア物語」「風と木の詩」「ポーの一族」「サイファ」「月の子」「笑う大天使」「サンプル・キティ」などの過去の名作に我々は回帰して、市場に氾濫する女性向けポルノ群へ背をむけ、ただただ郷愁を読みふけりましょう。

漫画「メダリスト(12巻まで)」感想

 メダリスト、既刊12巻までをイッキ読みする。スケート漫画としては、銀のロマンティック以来なので、じつに30年ぶりの体験の更新です。ここまでの経緯をまず説明しておくと、アイドルマスターに登場する9歳(!)の女児を演ずる声優に作者が入れあげたあげく、彼女の趣味であるフィギュアスケートを題材にした漫画を企画して持ちこんだばかりか、主人公の小学生スケーターを同声優にピンポイントで当て書きしたという逸話を聞きおよび、「ロリコン男性作家、相当に気持ち悪いな……」と長らく手にとるのを敬遠していたのでした。それが、今期のアニメを3話まで見て、思わぬ好印象に続きが気になってしまい、密林の無限焚書で無料公開分を読んでなお熱がおさまらず、既刊全巻を一括購入して読破するにいたったのです。まずまちがいなく、この書き手はフラジャイルの作画担当と同じ系統の女性作家だと断言しておきます。女性であることを確信する理由は2つありまして、ひとつ目は大量の女子小中学生をこれでもかと投入して大開脚までさせながら、その描き方に性的なニュアンスがいっさい混入していないことです。ふたつ目は、女子の精神的な成長がキチンとていねいに描写されているところで、男性作家にこのレベルの解像度を期待することは、ほとんど不可能だと言っていいでしょう。なぜなら、多くの男性にとって女性とは、「処女」「妻」「母」という3つの類型におさまってしまうものだからです。狂信的なファンを呼びよせないよう短く言及すると、メダリストの対極にある作品は「咲-saki-」でして、すべてのキャラに作者の性的な視点がねっとりとまとわりつき、内面の成長を描けない分を異能力や語尾や胸囲やタコスなどの外形的付加のみで、差別化しているのです。

 あわてて話をもどしますと、本作を読んでいてなにより深く心に刺さったのは、司先生のキャラ造形でした。「だれにも見つけてもらえなかった」「だれにも導いてもらえなかった」過去の自分を、未来の原石に重ねあわせて手をさしのべようとする、「他者を通じた、自己の育てなおし」の様子が痛切に胸にせまって、気がつけばグシャグシャに泣いていました。それは、初代ロッキーでチャンスを手に入れた主人公へ老トレーナーが協力を持ちかけたところ、「オレは10年前にアンタに助けてほしかった! なんで、あのときオレを助けてくれなかったんだ!」と壁をなぐりながら号泣したのとたぶん同じ感情で、なんとなれば、現実では長い時間をかけて「見つけ、導き、助ける」側の見かけを手に入れていようとも、小鳥猊下サイドの心の奥底には「だれにも求めてもらえなかった」「だれにも愛してもらえなかった」という気持ちが、いつまでも消えずにくすぶっているからです。また、個人的に感心したのは、登場する小中学生の名前が持つリアリティで、クラスの女子の半数以上に”子”がついていた時代から、ゆうに30年は引きこもっている中高年男性にとっては「キラキラネーム(笑)」との認識なのでしょうが、こちらの名づけが本邦の主流になってひさしく、正しく令和の感覚にアップデートされた作品だなと思いました(名字までキラキラなのは、少々やりすぎですが……)。ただ、最新刊におけるストーリーの進め方はすこし気がかりで、年上スケーターのケガによる退場は、主人公に金メダルを取らせるための苦渋の選択だとしても、3月のライオンでいうところの「宗谷名人の人間部分の掘りさげ」に類する展開と、それにともなう「スケート人生で初めてのミス」は、はたして必要な挿話だったのでしょうか。ともあれ、今後は群像劇のサブシナリオで長期化させず、主人公のメインストーリーを強く太い軌跡で残しながら、正しい終わりに向かって滑走していってくれることを、切に”いのり”ます。

 あと、またぞろヨネヅのアホが出しゃばって本作のアニメに楽曲を提供してやがりますが、いよいよロード・オブ・ザ・リング3部作を経たあとの、ホビット3部作でのピーター・ジャクソンを彷彿とさせる、イヤな権威臭をはなつようになってきましたねえ。あのさあ、女子の成長譚であるメダリストの主題歌には、女性ボーカルのほうがはるかにフィットするだろうし、ぜったいに作者だって9歳女児役の声優に歌ってもらいたかったに決まってるじゃん! それを、国民的アニメ作家や国営放送との仕事を無敵の殴り棒としてふりまわして脅迫して、周囲の大人たちは作品のイメージにあうかどうかではなく、広報宣伝のみを重視したネームバリューへと膝を屈してしまった。グスグスと半泣きで抵抗をしめす作者を、編集部とか制作会社の人間が説得しにかかる様子がまざまざと脳裏に浮かび、暗澹たる気分になってきました。みなさんはぜひ、チョーシノリのヨネヅが描いたとふれこみのCDジャケット?の絵を、原作の表紙と比較してみてください。ロリコン男性から女児に向けられる性的ニュアンスに満ち満ちていて、背筋がうすら寒くなることうけあいですから!