猫を起こさないように
<span class="vcard">小鳥猊下</span>
小鳥猊下

雑文「FGO第2部終章・ファンガス最新インタビューに寄せて」(近況報告2025.9.13)

 小鳥猊下は、更新頻度の間遠さに比して、かなり頻繁にエゴサをする人物です。たとえエアリプ的なものであっても、過去テキストに言及されるとうれしくなって、何度もおのれの書いたものを読みかえすほどで、その行為は人工知能への学習命令に近い効果となり、ますます言葉の自家中毒を深めていきます。ですので、「こういう方向のテキストを、もっと書いてほしい」や、「この作品や、あの作品の感想を聞きたい」などの要望がある場合は、間接的にも小鳥猊下宛だとわかるように書けば、彼は必ずやそれを見つけだして、未来のテキストに積極的な影響をおよぼすでしょう。このたび、FGO第2部完結へむけたファンガスの最新インタビューについて、nWoの過去テキストにからめたメンションが複数あったので、少し感想をのべておこうと思いたった次第です。ファンガスは、「型月世界の内側」という強い制約の下、みずからの生活感情や思想信条だけでなく、進行形の「”いま”と”世界”の実相」を、大きな物語として編むことのできる異能の持ち主だと言えるでしょう。とばっちりながら、その唯一無二性をさらに浮かびあがらせるため、氏の代表作の前日譚を乞うて執筆させてもらった、エロゲー業界という同じ出自を持つボイド・ブラックに、まずはふれていくこととします。文筆家の祖父を持つ彼は、言語運用能力に多少の遺伝的要素があることを鑑みれば、まさに「テキスト界のサラブレッド的存在」です。じっさい、その仕事は年齢制限のあるゲームにとどまらず、小説からアニメや特撮の脚本まで、ファンガスとは比べものにならないほど、多くの分野とジャンルにおよびます。ボイド・ブラックとファンガスのあいだにある決定的なちがいは、彼の書くものにはどこか「人間への軽蔑」が混ざりこみ、作中へ「一方的に断罪してかまわない存在」を、まま生じさせるところでしょう。

 ひとつ例をあげると、テレビ版のまどかマギカにおける「電車内で少女にからむホスト」がまさにその典型で、ムダに気むずかしい小鳥猊下は、この種の他者への蔑視を感じた瞬間、対象の物語に対する心の連絡路を完全に遮断して、感情移入しながら鑑賞することをやめてしまうほどです。その一方で、10年を1日のログイン中断もなしに追いつづけたFGOにおけるファンガスの筆ーー他のライターは全然ダメですよ、念為ーーには、ついに一文も、一語たりとも、「人間存在へのあなどり」があらわれることはありませんでした。「美しいものを書きたい」というファンガスの希求が、ただの題目や放言でないことは、彼の書くものをていねいに読みつづければ、自然と伝わってくるものですし、もし伝わらないとすれば、彼のファンを名のる資格はありません。この、世界そのものへの圧倒的な信頼がどこから生じているかと問えば、まったく文章で食っていけない不遇時代に、彼の才能を信じて生活費のすべてを支援し、書くことに専念させたという、型月社長との関係においてでしょう。あなた、いま半笑いでこのくだりを読んでおられますけど、これまでのあなたの人生に、そんな存在はいったいいましたか? あなたがそんな無償の愛をささげるだれかを、ひとりでも思いうかべることはできますか? それは、nWoお気に入りのたとえである「スーパーマン・リターンズのスタジアム」や「アップル・コアのルーフトップ・コンサート」を目撃した人々のように、仮に残りの人生が失敗に塗れたみじめなものであってさえ、世界そのものを心から肯定できる「美しい、無私の献身」だったのにちがいありません。

 ようやく、第2部終章へむけたインタビューに話をもどしますと、ファンガスの中の人は、相当度に天然の”虚構至上主義者”のようで、過去にも「我々の世代はロボットアニメを見て育っているので、平和の大切さと戦争の悲惨さが骨身にしみてわかっている。若い世代はもっとロボットアニメを見るべき」みたいな発言があって、今回の国家に関するストレートな言及も、むべなるかなといったところでしょう。ツイッター時代には、彼の匿名アカウントも存在したようで、うかつな発言のわりに炎上しないのは、ただただ作品のおもしろさだけを信奉するファンたちの、たとえば晩年における寺沢武一のネット奇行を見てみぬフリでとおし、死去のあともけっして蒸しかえさない姿勢と同様の、よくよく”訓練された”心情ゆえかもしれません。これは推測にすぎませんが、書きたいメッセージやテーマを明確に持っており、それを高い純度で作品に落としこめる創作者ほど、活動の晩年へと進むにしたがって、「わざわざ物語で出力すること」の迂遠さに、隔靴掻痒の感が身中へと強まっていくのではないでしょうか。そして、「有名小説家が泡沫政党から選挙に出馬する」のを極北とした、さまざまの「ダイレクトな表現形式」がリアルに噴出するようになってくる。これは作風から判断するに、おそらくボイド・ブラックにとって無用の心配ですが、ファンガスはちょっと危険性あるなーと思ってます(まあ、仮にトチくるったとして、社長が拘束衣とギャグボールで制圧したのち、フロム・ソフトウェアを処方して沈静させるにちがいないという、謎の信頼感はあります)。いずれにせよ、テキストはおもしろいのに物語を持っていない人物から言わせれば、たぐいまれなる才能を「現世のよしなしごと」などというつまらぬものに費やさず、ファンガスにはコピ・ルアクのごとき極上の虚構排泄にだけ、これからも邁進してほしいところです。ホヨバとタッグを組んだFGOのリメイク、期待していますよ!

アニメ「瑠璃の宝石」感想

 瑠璃の宝石、アニメ4話の放送段階で原作の電書と実体を両方とも入手したほどにはハマッているので、エッキスのトレンドに作品名が浮上したことをきっかけとして、ザツ語りの自分語りを残しておきたいと思う。ぶっちゃけた話、本作のジャンルは「オッサンの趣味嗜好を美少女に追求させる性癖動物園」であり、見開きページの左に鉱床、右にシワまで描きこまれた美少女のパンツが配置され、そのどちらも「輝いて見える」人間にもっとも”刺さる”内容になっているわけです。瑠璃の宝石を語る評の中には、アカデミズム方向へと極端にかたむいた礼賛が散見されますが、対置される性欲が本作を視聴する強い動機であることを、ごまかしてはいけません。デブの男子大学院生とヒョロガリの男子高校生から、鉱石の魅力を力説されたところで、けっしていま我々の胸中にきらめく、同じ感情へといたるはずがないのですから! つまり、作者自身の投影である巨乳大学院生が、偶然に出会った女子高校生(美少女)から、マイナー分野の知識のみを理由に好かれはじめ、その友人とおのれを慕う研究室の後輩との師弟愛ーー師妹愛という言葉がないのでーーを間近に愛でるという、瑠璃の宝石ならぬ「百合の放埓」こそが、作り手にとって最高の願望充足であると同時に、チョウチンアンコウのごとく受け手の興趣を誘蛾する要因だと、指摘できるかもしれません。

 最近、アメリカのある企業がテレビCMを布面積の多めな有色のふっくら女性から、布面積の少なめな白人のセクシー女優に変更したとたん、株価が倍になったという話を聞いて思わず笑ってしまったのですが、性的なまなざしの否定は、公の場での表出をひかえさせる効果こそあれ、内心にたぎるマグマのような熱を冷ますにはいたらないのでしょう。オタクたちがもじもじと認めたがらない、これらファクターSEXの向こう側には、路傍の石から永遠の宇宙へと想いをはせる、中華フィクションである三体原神も真ッ青の、時間を基軸としたセンス・オブ・ワンダーが広がっているのです(本邦の田吾作賞が、「アルトリア顔」ぐらいの雑さでSF認定しそうな未来が見えます)。サファイアの産地を探る過程での、知ることによって謙虚になり、謙虚になることで怖さを知る描写も、「学びの本質」を突いていて、とてもいい(学ばないかぎり、我々は無敵でいられるのです)。また、本作は青春期において、”好き”があることの強烈なアドバンテージをはからずも描いており、「スーパーカブでソロキャンプに来て、ラジオで競馬中継を聞くオタク」のイラストを脳内に想起しながら聞いてほしいのですが、初老男性から青少年男子に、過去の悔恨とともにお伝えしておくと、美少女の登場する虚構を愛する我々は、「性欲を”好き”とカンちがいした、なにも”好き”ではない人間」にすぎず、世界において情熱をかたむける対象がないことから目をそむけたまま、ただただ生と性を空費し続けている存在なのです。

 瑠璃の宝石は、本質的に「”好き”がない高偏差値の学生よりも、”好き”がある低偏差値の学生のほうが、受験期のがんばりがきくし、大学に入学したあとの予後ーー前者は医学部を受験させられて、不登校の末に中退するイメージーーも良好である」みたいな話で、2人の10年後に思いをはせると、ナギさんは万年助教みたいな立ち場で貧乏を苦とも感じず、楽しく地質学の研究を続けているだろうし、ルリは院進せずに地元で接客業か販売業に従事しながら、趣味で鉱石版の郷土史家みたいなことをやっているところまで想像できてしまいます。先日、タイムラインに人工知能の台頭を契機とした、ライターやイラストレーターの価格ダンピングに対する悲鳴が流れてくるのを見て、同情より先に「ブルシットだがコンスタントに少なくないカネが手にはいる、”好き”でもなんでもない生業」を選択したことへの安堵と優越が先にきたような人間なので、将来の2人が手にするだろう「清貧の幸福」には、なんともうらやましいような、ねたましいような、あいだにはさまりたいような気持ちにさせられます。ともあれ、パンツが見えてしまうことを意識しないルリの小学生ーー高1にしては幼すぎません?ーーみたいな駄々は最高だし、ナギさんのガテン系のガタイとカタパルト・パイオツはもっと最高です!

ゲーム「都市伝説解体センター」感想

 一時期、タイムラインに頻々と流れてきていた都市伝説解体センターを、1ヶ月ほどーー4話あたりでダルくなって一時中断したので、実質1週間ーーかけてようやくクリア。人生におけるアドベンチャーゲームのベスト3を挙げるならば、順に「ファミコン探偵倶楽部2」「オホーツクに消ゆ」「新・鬼ヶ島」となる昭和キッズにとって、本作をスルーするという選択肢は、あらかじめうばわれていたのです。このゲーム、「京極夏彦と逆転裁判の影響下にある、ファミコン時代のADV」といった見かけなのですが、ケレン味のあるキャラクターのわりにシナリオと、なにより各話のオチが弱く、読みすすめるのに難渋しました。作中の人物より先に真相に気づいても、ストーリーを進めるには、いにしえの「コマンド総あたり」しかなく、タイパ重視の令和キッズは、たいそうイライラがつのったことでしょう。また、本作の物語フォーマットは、安楽椅子探偵が女子大生の助手を使って事件の調査を進める、ミス・マープル的なものなのですが、解決編はいずれも真犯人の同席する警察不在の場において、丸腰の女子がケイタイのスピーカーで真相を聞かせるというものになっていて、昨今の陰惨な通り魔事件などを見るにつけ、かなり無神経なリアリティラインだなとは感じました。もうひとりの女性助手が、男性からの物理的な反撃を鎮圧する場面もあるにはありますが、一種のありえないロマンと自覚しながら、戦闘美少女を愛でていた時代はとうに過ぎ去り、「女性は男性に、物理的暴力ではかなわない」という単純な事実を忘却させるフィクションが横行しすぎていることは、すでに現実へ悪影響をおよぼしているような気がしております。

 あまり肌にあわない物語を読了することができたのは、ひとえにあざみちゃんのアホかわいさと、1話完結のオムニバス形式をとりながら、各話のつなぎで明かされる大きな陰謀のほのめかしでした。そこで流れるジャパニーズ・ラップにはヘキエキさせられましたが、ドット絵の見かけそのものがトリックにつながっているのだろうと、一日の終わりに寝落ちしそうになりながらも、チマチマと読みすすめていったのです。ネタバレ全開でクリア後の感想を述べますと、ゲーム内のすべての要素がポートピア連続殺人事件でたとえるならば、「犯人はボスとヤス」という大オチを演出するための仕かけになっていて、ずっと40点ぐらいーーあざみーのかわいさ加点がなければ、赤点レベルーーだったのに、ラスト20分の印象だけで80点に化け、しばらくして余韻がぬけると60点ぐらいに落ちつく、「剣術勝負での飛び道具」みたいな作品でした。ドット絵による世界認識そのものがフェイクで、途中から高精細なCGに変じてボイスがつく方向の変化を予想していたので、この表現形式が「ボスとヤスが同一人物」であることの可能性を、読み手に露ほども気づかせないためのギミックだったのには少々、肩すかしの感じはありました(よほどの役者を見つけないと、実写化はむずかしいかもしれません)。

 あと、警察上層部の自宅にかけられた絵の価格が5万円なのを、やたらと「高い、高い」とさわぎたてるので、なにかの伏線かミスリードかと思っていたら、特にそんなことはなく、デフレ時代におけるインディーズ・ゲーム制作者の、個人的な金銭感覚を表出しているだけでした。そもそものところ、このゲームの価格が2,000円以下というのは相当におかしな値つけで、5,000円以上とってもぜんぜん納得できる内容だと思うんですよ(その場合、ここまでバズらなかったかもしれませんが……)。我々はもっと自信をもって傲慢になり、おのれの才能に対してもっとカネをよこせと、声高に世間へ主張していくべきじゃないですかねえ。以上、四半世紀におよび無料でインターネットにテキストを提供し続けている管理人からのボヤきでした。

雑文「STARRAIL Odyssey and METAPHORIC Student Activism」(近況報告2025.8.24)

 崩壊スターレイルの最新バージョン3.5を読了。内実はプラモなのを駄菓子として販売するため、小さなガムを申しわけに同封していた往年のビッグワンガムを思わせる、内実は大河小説なのを課金ゲームと強弁するため、木枠のチルトでビー玉を外に運ぶ”知育玩具”を申しわけにマップの片隅へと置く仕草には、思わず笑みがこぼれました。先のビー・エル騒動からもうかがえるように、大陸では漫画や小説に対する当局の検閲があまりに強すぎるために文化として育たず、それらの分野をこころざす若きエンタメの才能たちは、すべてアプリゲームに集結していくとの指摘をどこかで読み、ホヨバという会社への解像度があがった次第です。最近の原神は、なんら構造性のない平板な「家族愛の一本槍」をふりまわすばかりで、当初の浮かされたような高熱は、ほぼ平熱まで冷めてきていますが、ストーリーテリングだけに特化した崩壊スターレイルのバージョン更新は、「世界最高峰の最突端を、現在進行形で走っていると信じる者たち」の輝かしい才気と荒々しい自負が、挫折した創作者の魂を熱狂でふるわせるのです。登場するすべてのキャラクターたちは、「大きな物語」を駆動するための狂言まわしとしての役割をあたえられ、あえて悪意的に言えば、本邦のそれらとちがって、物語を剥奪されたときに単体で自立する強度は、まだ持ちえていません。これはおそらく、「当局の検閲を意識するため、性的なニュアンスをあからさまには付与できない」ことに起因していると分析しますが、同時にシンエヴァを極北とした「キャラクターが、世界の構造に優越する」物語群に堕することから、遠ざけてくれているとも言えるでしょう。

 現段階において、「シミュレーション世界であるオンパロス」「オンパロスを演算するオペレーション世界」「スターレイル世界」「我々の住まう現実世界」の”四重入れ子細工”によって物語はつむがれているのですが、才能の枯渇したストーリーテラーにありがちな、そして近年、本邦の虚構で散見しがちな、”第4の壁“を越える愚だけはおかさず、おそらくのゴールである「シミュレーション存在の受肉」を語りきってほしいものです。これは、急速に発展する人工知能が人間という肉を介さずには、世界へ干渉できない事実に向けた思考実験であり、もっと卑近に言えば、「清潔な都会のデスクワーク」と「粉塵が舞う地方のドカチン」の対比であり、後者の環境で活動するためには、「アイの歌声を聴かせて」の感想でもチョロっと書いたように、ネット環境へ依存しない「安価で自立した、人間そっくりのガワ」が必要となり、そんなものはまだ世界のどこにも存在しないのに、だれもあえて言及しようとさえしない難題でもあります(ドカタ仕事は、無限リポップするとでも思っている、高卒ヤンキーにまかせとけと考えているのかもしれません)。

 いつものように話はそれますが、メタファー:リファンタジオに関する評をネットサーフィン(笑)でさがすうち、故・三浦健太郎と開発スタッフが対談する、数年前の記事を発見してしまいました(ゲームにうといウラケンがメガテンをほめまくるのに、「いやいや、それは金子一馬さんをはじめとする先輩諸兄の手がらであって……」ぐらいの謙遜さえないのには、たいそうムカつきました)。それを読みすすめるうち、プレイ中にずっと感じていた「恥ずかしさ」と「いごこちの悪さ」の正体がなんだったのか、ようやくわかりました。事前に予想していたとおり、制作の統括者たちとはほぼ同世代であり、この年代は学生時代にインターネット抜きの平和教育と人権教育を、べったりと魂の基底部に塗りつけられた経験があります。ゲームを起動すると、毎回ながれるムービーの冒頭に、市民が犬の獣人をののしって足蹴にするシーンがあり、これが本当に心の底から不快で、うっかりスキップに失敗したときには、プレイせずにシャットダウンしてしまうこともあるぐらいでした。その理由を言語化すれば、大卒で富裕層出身の全共闘がチンポみたいにゲバ棒をふりまわし、高卒で貧困層出身の機動隊をなぐりつける図式を連想させ、「部落差別」や「穢多非人」を小学生に語る大人の目の底にあった正義に酩酊し、反論をいっさい予期しない支配の強圧が臭気のかげろうとなって、眼前にたちのぼるのを幻視したせいでしょう。魂のおもてにこびりついた、コールタールのような黒い汚れをすっかりぬぐいとったはずなのに、遠目にはきれいな白い表皮から、あの特有のにおいはいまだ消えていないのです。この意味でメタファーの、主にストーリーに対する負の感情は、同族嫌悪に近いものだったと理解できますし、全共闘の大卒者たちが人生の最終盤をむかえて地上より消滅しつつある現在でさえ、いまだに彼らのあたえた色眼鏡を通してしか世界を認識できない人々の実在に気づいて、愕然とさせられます。

 崩壊スターレイルがわずか2年ーー6週間毎の大型アップデートを続けて2年ですよ、念為ーーで、人間存在の深奥にせまる巨大なSF叙事詩をみごとに織りあげつつある一方で、メタファーは7年もの歳月ーーウラケンも完成を見ずに亡くなってしまったーーをかけて、昭和の同和教育読本「にんげん」をファンタジー世界に再現しているのです。自戒をこめてテキストに残しますが、大陸の若き英才が文字通り、命を賭して虚構を通じた体制批判を敢行しているのに対して、単純な時間経過によって、上の世代が組織からロールアウトし、もっとも大きな責任をあずけられる立ち番になってなお、こんなイデオロギー未満の甘えーー両親、国家、権力者などへの攻撃ーーを捨てられない心性は、まったく恥ずべきものです。どうか若い世代のみなさんは、古い世代がさらに古い世代より押しつけられた価値観を忠実に体現するメタファーではなく、大陸の新しい息吹が現在進行形の世界と対峙する崩壊スターレイルから、人生への処し方を学んでください。

ゲーム「メタファー:リファンタジオ」感想(クリア後)

 ゲーム「メタファー:リファンタジオ」感想(開始35時間)

 メタファー:リファンタジオ、このウンザリするような超大作を95時間(!)かけて、ようやくクリア。「物語摂取」だけを考えた場合、映像やマンガなどに比べると、やはりゲームの時間あたりの効率は最悪です。このディスアドバンテージについて、物語そのもののクオリティや、ゲームならではの体験部分によって納得感ーー言い換えれば、映画40本に伍するエンタメという錯覚ーーをあたえるのが名作の条件であり、この意味で本作は、そのどちらにも失敗しています。最近のトレンドにあがっていたバクマンをひきあいに、週間少年ジャンプのアンケートシステムについて、「ワナビーの情念を火にくべて、当たるまで回し続ける物語ガチャ」と揶揄することもできましょうが、いわゆるAAA級ゲームを数百人が関わるプロジェクトとして立ちあげたあとの、制作撤回どころの話ではない、執行役員やメディアの前はもちろん、仲間であるはずの会社スタッフ相手ですら、ネガティブなことは微塵も言えないというスタークリエイターの地獄は、この対極に位置しているような気がします。メタファーの制作期間は7年の長きにおよび、制作チームのメンバー以外にも、さまざまな役割で本作が世に出ることへ貢献した人々がおり、彼ら/彼女らの中には子育ての時期がそのまま重なった方々も、きっと少なくなかったことでしょう。

 すでに成人してから、永遠をなかばまで生きている我々は、「キミ、ひとつのゲームつくんのに時間かけすぎや! いいかげん、オッチャンらの寿命のほうが先にきてまうで!」ぐらいの感じでヘラヘラ笑っていられますが、本来7年とは、新生児が小学生に、小学生が中学生に、中学生が成人をむかえるほどの、一個の無垢な魂が知恵と人格を身につけて、世界へと解き放たれるのに充分な、意味性の密度に満ち満ちた時間でもあります。基礎工事さえままならない、グズグズの沼沢地みたいな世界観とシナリオの上へ、多くの人生から年単位を供出させて、自立するかも不明な巨大伽藍の建造を強いる行為には、なんらかの罪名すらつくような気さえしてきました。鬼滅の刃が5年で連載を終えて、継続的なアニメ化による超ヒットが全国を沸かせているさなか、稚拙な政治観と浅い人間理解による陳腐きわまるストーリーを、ただただ制作費回収のために鳴り物入りで世に問わねばならないのは、良識ある人の親たちにとって、ほとんど恥辱と言えるのではないでしょうか(またもや週間少年ジャンプでたとえておくと、「10週で打ち切りになるはずの作品が巻末で7年の連載をゆるされ、単行本のリリースは随時ではなく、なぜか1巻から最終巻までを同時発売した」といったぐあいのイビツさです)。7年という時間は、たとえ大人であっても別人のように成熟ーーこの単語が人間に期待しすぎなら、変容ーーするのに充分な長さであり、個人的にも7年前に書いたテキストなんて、ちょっと怖くて読みかえせません。

 唐突に話はそれますが、最近の原神はナタ編の後半からずっと低調で、最新のバージョンにおいて、これまでなら時限マップにとどまったはずの夏期リゾート地を、正規マップとしてナタ本体へと合体させてしまいました(炎の印の数から判断して、確定事項)。くわえて、初期からの人気キャラであるベネットを「じつは、ナタ人である」としたのは、スターウォーズ8級なアトヅケのドッチラケで、いったん悪印象をいだくと幽霊になった両親との心あたたまる交流も、中共のプロパガンダとしか思えなくなってきます(次章のナド・クライを「ゴッサム・シティのような、原神という物語の中心地にする」との発言から、すでに開発リソースをそちらへ全振りしているのかもしれません)。「もうデイリー消化からは外して、ときどきログインするぐらいでいいかな……」とコントローラーを置きかけたところで、しかし、イネファの魔神任務に心を射ぬかれて、泣いてしまったのでした。たとえ悪性をもって生まれた者ーー両親との関係性や犯罪被害による、幼少期のトラウマと読みかえてもいいでしょうーーであっても、正しい人間関係と日々の生活を記憶や経験として積み重ねていけば、やがてみずからの悪性を乗り越えて、ついにはそれを消滅させることができるといった内容で、「別の人間を何人か育てても、いっさい変わることはなかったと思いこんでいたおのれの内面が、じつは善良なものに上書かれているのではないか?」というささやかな希望へ、救われた気持ちになったからかもしれません。このように、自己弁護ではなく、他者へ届こうとつむがれた物語は、書き手の見知らぬ場所で、大輪の花を咲かせることがあるのです。

 さわやかな感動から、話をけったくそ悪いメタファーへとイヤイヤもどしますと、「もしかして、このストーリー、全然ダメなのでは?」という、制作責任者として、周囲のだれに吐露することもできない、苦しい胸のうちを糊塗するかのように、物語終盤からラスボス撃破後のウイニング・ランa.k.a.長すぎる後日談にかけて、どんどん蛇足な補足の言いわけが、等比級的に増えていきます。あれだけ民主主義の価値を強調しておきながら、選挙なしで旅の仲間全員に国の要職をあてがうという、ゲバラとカストロも真ッ青の革命”オトモダチ”政権には、町のNPCから批判的なことを言わせ、暴力による政権奪取からわずか1年で、エンディングのためのエンディングを演出すべく、閣僚全員が統治の席をカラにして外遊へと出かけるさいには、「瞬間転移装置があるから大丈夫」と細かいフォローを入れます。山月記で虎が一晩だけ正気にかえるような、軍歌を耳にした恍惚の老人が一瞬だけ直立して敬礼するような、一種異様の「厳粛な滑稽さ」が本作の結部には満ちあふれているのです。「7年後の自分には、7年前の自分の頭がおかしかったとわかるが、数百人の人生をまきぞえにここまで作らせた以上、いまさら正気にかえるわけにはいかない」というガンギマッた悲壮感が、ひしひしと伝わって泣けますが、流れる涙のわけは悲しみというより、同情に由来するものだとお伝えしておきます。そして、まちがった世界設定をなんとか整合するため、どんどん言葉が増えていくのに対して、ゲーム部分はコピペダンジョンと使いまわしのエネミーで、どんどん先細りしてゆくのです(結局、最初に攻略したダンジョンが、いちばん豪華でギミックに富んでおり、制作途中での制作費縮減を疑いました)。

 さらに、ゲームバランスも調整不足を通りこして完全に崩壊していて、二度ともどれないくせに平坦な2マップだけの最終ダンジョンへと監禁されたあとは、ここまであれだけイジメのように制限をかけてきたMP回復が、なんと無料の無制限で解放されるのです! ストーリーをカレンダーどおりに進めたぐらいでは、とうていまかなうことのできない膨大なジョブ経験値をかせぐため、最終セーブポイントの半径数十メートルをぐるぐると何時間も周回する息ぐるしい作業には、ほとんど閉所恐怖症的なものを誘発させられ、アニメのながら見ーー瑠璃の宝石、おもしろいですーーがなければ、それこそ心がバターになってしまうところでした(わかりにくいたとえ)。満を持して登場するはずだった東京各地をモチーフにしたダンジョンは、7年にわたる制作費の蕩尽に業を煮やした執行役員の大ナタによって、渋谷?の1枚絵のみで処理され、ルシファーそのまんまの見た目をしたラスボス戦へと突入した時点で、”ニンゲン”なる表記は特に物語的な意味を持たない、メガテンの”アクマ”に対する逆張り連想ゲームにすぎなかったことが確定します。このラストバトル、強力なジンテーゼ持ち2枚とアルティメットガード役1枚をならべ、回避すると敵のターンをすべて潰せるブッ壊れーーおそらく、テストプレイが充分ではないせいーーアクセサリを装備したハイザメ先生を準備し、毎ターン同じコマンドを入力し続けるだけの”簡単なお仕事”なのですが、HPはほぼ無傷のままMPが先に枯渇し、MPを完全回復するアイテムを所持しているかの”持ち物チェック”が、最大の難所になるという腰くだけぶりでした。

 最高度に美麗な見かけをよそおいながら、ゲームや物語の内実がここまでそれと乖離している超大作ーー美女を誘蛾灯にする、ベルセルクの触に登場したモンスターを想起ーーは、近年まれに見る「羊頭狗肉の商売」ではないでしょうか。中高年期の貴重な余命である95時間を、生きたままむさぼり食われた哀れなこの先人の手記が、新たな犠牲者を生まないための一助となることを切に願います(人間の乳房の形状をした怪物の器官をもみしだきながら)。最後に言っときますけど、優秀なスタッフたちを飼い殺したまま、メタファーの完全版なんかに着手したら、ぜったいにダメですからね! 土台が腐って家屋全体が傾いてるのに、いまさら高価な家具を搬入したり、内装に凝ったってしょうがないでしょ! 仮に次回があるとすれば、彼ら/彼女らが子どもーーまあ、7年もの制作期間中に成人して、すでに家を出たかもしれませんけれどーーに誇れて、せめて学校でイジメられないようなものを作らせてあげてくださいね!

映画「教皇選挙」感想

 見よう見ようと思っていたのに、劇場へ足を運ぶまでの熱量はなかった教皇選挙を、アマプラでようやく見る。ほんとうにこれ、最近は使いたくないんですけど、他に用語がないのでしょうがなく口にしておくと、全編にわたって「ローマ・カソリック的ポリコレ」に満ちあふれた作品でした。たとえるなら、「ああ播磨灘」で主人公がおばあさんを抱きかかえて、女人禁制の土俵へあがるんだけど、絶妙に彼女の足を土へつけさせないパフォーマンスによって、伝統への配慮を同時におこなっている感じと表現すれば、伝わる人には伝わるかもしれません。気になった場面を順にあげてゆきますと、アフリカ教区の黒人司祭が下馬評1位で1回目の投票において最多得票となるのに、人種ではなくスキャンダルを理由にその支持を失わせることで、「黒人を教皇とする」暗黙のタブーに対して、きめこまやかな配慮を行っています。また、この黒人司祭の醜聞の内容はといえば、30歳のときに19歳の女性とのセクシャル・インターコースによって私生児をもうけたにすぎず、お相手を10歳や12歳の少女に設定しないことによって、「カソリック司祭による児童への性略取」という真のスキャンダルへの追求は、巧妙に回避されます。また、アジア人の存在は厳重に秘匿され、クリント・イーストウッド監督が「グラン・トリノ」で見せたような差別意識は、作品の表層へ姿すら見せないまま、無言のうちに抑圧されます(「西洋社会に衝撃を与えるが、かろうじて許容できる」人種はラテン系ヒスパニックまでであることは、最終的に教皇選挙の勝者となるアフガニスタン教区の司祭を見れば、おわかりいただけるでしょう)。

 さらに、「ロビー活動なし」「決選投票なし」で参加者の3分の2の票を得るなんて達成できるわけもないのに、階段の踊り場に集まった3人のひとりに「我々は、まるでアメリカ人みたいじゃないか!」と言わせて、「ご覧になっているのは映画的な演出にすぎず、じっさいのコンクラーベはもっと公明正大で、作為はありませんよ」と観客に目くばせーーこっち見んな!ーーしてくるのです。そして、イエス・キリストが男性をしか使徒に選ばなかった事実に由来する、「女性は枢機卿になれない」伝統への挑戦には、なんと候補者が両性具有であったという反則級のウルトラCが使われます。しかも、「体内に子宮があるのに、30代まで気づかなかった」として、排泄と性交を男性として行うことができる程度にしかアンドロギュノっていないとの言い訳まで、周到に用意されております。かてて加えて、戴冠式(着座式?)の場面を映さずに、路地をかけてゆく若い尼僧たちの姿で物語の幕を降ろすことによって、「あれからどうなったって? もちろん、ノーコンテストの再選挙となったに決まってるじゃないか!」という逃げ道まで、神経質にしのばせてくるのです。ついでに、難癖レベルの不満(いつもの)までぶちまけてしまいますと、「システィーナ礼拝堂のフレスコ画が完全に無傷な、上部の窓ガラスが内向きに割れる程度の自爆テロで、主人公が気絶するほどふきとばされる」って、もうこれ、完全なプロレスじゃないですか! ジョーカー2の裁判所シーンぐらい盛大に爆破して、コナゴナになった最後の審判を見せて、アジア人たちの溜飲を下げてくださいよ! それに、最終投票の直前、鳥の羽音とともに礼拝堂へ光が差し、列席者全員がなんとなく空を見あげる演出も、「政治や信条の話じゃありませんよ、これは宗教と信仰の話ですからね」という、キリスト教徒へのビクビクした目くばせーーこっち見んな!ーーとしか思えません。

 ここまで読んでおわかりいただけたでしょう、本作は現代のローマ・カソリックがかかえる問題にふみこもうとしてふみこみきれず、制作者がふみとどまった地点をそれぞれ線でつなぐと問題の輪郭がボンヤリとうかびあがり、「意図せぬ痛烈な批判」になってしまっているという、じつにヘンな映画なのです。最後に、個人的な体験をお伝えすれば、持ち前の億劫病から、「28年後…」と視聴の順番が逆になってしまったせいで、キリスト教の腐敗に絶望したレイフ・ファインズが、いつ自室でヨードチンキを顔に塗りだし、礼拝堂に居ならぶ枢機卿をみな殺しにしはじめるのか、終始ドキドキが止まりませんでした。

ゲーム「メタファー:リファンタジオ」感想

 前から気になっていたメタファーが蒸気のセールでほぼ半額になっていたため、ダウンロードして35時間ほどプレイ。本邦における「スタークリエイターの功罪」問題を極限にまで煮つめたような作品で、ここまでの印象をお伝えするならば、「最新の調理器具をそなえた、ビカビカにみがきあげられてホコリひとつない厨房に案内され、最高級食材の説明を受けていたら、奥からトップシェフが下半身まるだしで登場し、キメキメのポーズでとりだした小皿にぶりぶりと軟便をひりだすと、とめるいとまもあらばこそ、優雅な仕草でそれをフォン・ド・ヴォーに溶きいれだした」のを目のあたりにする唖然とでも表現できるでしょうか。すなわち、最高の美術とデザインに最低の世界観とシナリオーー「ライターはまともで、物語がエス・エイチ・アイ・ティー」なのは、めずらしいパターンーーという自己矛盾をはらんだ、FF16を彷彿とさせる「やっぱじんしゅさべつとせんそーはいくないし、なかまとみんしゅしゅぎはさいこー」な昭和時代のレフトウイングド平和教育の恩恵をぞんぶんに受けた、無思考的自動書記の脳天壊了ファンタジーになっているのです(システム面は後述します)。女神転生ではない新規IPを立ちあげるために、「王道ファンタジー」として企画され、7年もの制作期間を費やした本作は、近年の創作で言うなら「全修。」のような「自分の実力をカンちがいしたアホ」がやらかした感にあふれています。海外の児童文学と、たぶん偉大なるドラクエの影響から、本邦ではファンタジー作品を「気軽に作れるもの」として、フィクションのうちでも下に見る傾向がある気がしますが、本来はル・グゥインや栗本薫トールキンのようなレベルの創作者たちによる、作家人生の円熟期に全知全霊をかけた、世界をまるごとゼロから構築するヤハウェにひとしき御業(みわざ)なのであり、言語と文化はもちろん、歴史と宗教、重力の規模や大気の組成、物理法則や公転周期にいたる「ほしのなりたち」のすみずみにまで通暁していなくてはなりません。

 個人的に、生殖と交雑についての言及がゼロなのは大問題で、8つの種族のうち、どれとどれの生殖器が合致し、どれとどれが交配可能で、どれとどれが一代雑種にとどまるのかは、良識的なプレイヤーに生じて当たりまえの疑問でしょう。トールキンの強い影響下にあるD&Dをダイレクトに孫引きした、半世紀前の和製ファンタジー群ですら、「美形のエルフと人間のオッチャンはセックスできるヨー! チンチンマンマン、チンチンマンマン!」みたいないきおいで、ハーフエルフを登場させるぐらいの機転(性欲?)はありました。他ならぬクリエイター本人に聞いても、この質問に対する回答がまったく用意されていないことを想像できてしまうのは、アセクシャルな性嫌悪の時代を象徴しているとは言えるかもしれません。そして、ファンタジー世界を構築する上でなにより重要なのは「固有名詞のセンス」であり、貴族にはルイ(サイファー?)、武人にはなんたらベルグ、ミノタウロスまんまの見た目をした敵はモジってグプタロスみたいな、3秒の思考も感じられない借り物のネーミング(と、過去のメガテン制作者たちによる知恵の結晶である魔法名の丸パクり)で構築できるのは、「ファンタジーの王道」とはほど遠い「劣化した現実」でしかないのです。今後、小説を通じた民主主義の描写や、東京タワーの3Dモデルがオープニングに登場することから、真・女神転生4よろしく地下か天上に渋谷やら新宿が存在していて、「その通り、メタファー世界とは、我々が生きる現実の暗喩であり、その劣化が争いや差別の萌芽につながるという、一種の社会批評実験なのです!」などの、アタマが悪くプライドは高い人物(オマエが言うな!)による言い訳が用意されていたらイヤだなーと思っています。

 ゲームシステムについて言えば、そのまんまペルソナ5を踏襲していて、傑作と名高い同作を終盤でほうり投げ、クリアにいたっていない身には、かなりきびしい仕様であると言わざるをえません。なんとなれば、完璧なデータを作るためには日数とMPのリソース管理をかなり厳密に行わねばならず、後追いで攻略サイトをフル活用するばかりの社畜ゲーマーにとって、チャートをカタワらに置いて指呼確認しながら、他所様の粘液トラックを1ミリも外れないようなぞるだけの作業と化してしまうわけです(ペルソナ5はどこかでトレースしそこねて、「取りかえしのつかない要素」が生じたことに、嫌気がさしてやめた)。公転周期の話をしましたが、異世界なのに1ヶ月30日のカレンダーが存在するのも意味不明ーー週5日で日曜が多いのだけは好印象ーーで、本邦に住まう者たちの共有財産であるところの、学生生活を下敷きにしていたからこそ有効だったフレバー要素を、無思考でファンタジー世界に敷衍する態度には、「作り手の怠慢」以外の言葉が見当たりません。プレイヤーの行動を制限すればするほど、全体のゲームバランスはとりやすくなるのでしょうが、なにも参照せずにプレイを進めると適切な強化を得られず、明確な”詰み”が生じるのは、いかがなものかと思います。うすうす、このシステムの欠点に気づいているのでしょう、ネット経由で他プレイヤーによる同日の行動を見られる機能もあるのですが、溺れる者へ投げわたされる竹の棒くらいしか役にたちません。

 また、とりこぼしのないデータを作るためには、タイトなスケジュール管理を要求され、ダンジョンの低レベル攻略をなかば強いられることになり、20年間を改善なくこすり続けられているプレスターンとの食いあわせは最悪です。フォロワーが生まれないことからもお察しである、「弱点」「回避」「クリティカル」で彼我の行動数が増減する戦闘システムは、特に低レベル帯において運の要素を大きくしすぎるからです。ボスが最弱行動を選択し、できるだけ多く味方の回避とクリティカルが出ることを祈りながら、幾度も「戦闘をやり直す」ボタンを押すのって、RPGの楽しさからはもっとも遠い作業のように思えてなりません(しかしながら、「格下をフィールド攻撃で一掃でき、ダンジョンの出入りで敵が復活する」仕様を悪用して、無限にレベリングできることに気づいたあとは、いっきにヌルゲーと化してしまいました)。全体的に、用意された多くの要素がたがいにかみあわずチグハグとなっており、完全新規のゲームシステムを求めて、7年間をかけたスクラップ・アンド・ビルドをくりかえしたあげく、タイムアップでペルソナのシステムにもどしたような印象を受けます。最近、似たようなことを感じたゲーム、あったなー、なんだったかなーと考えていたら、モンスターハンター・ワイルズだった。また、タウンマップより遷移する全体マップからは各地のロケーションに直接は飛べず、いちいち鎧戦車へと移動しなくてはならなかったり、装備・アイテム・アーキタイプの階層が絶妙に使いにくかったり、7年間の建て増しによる弊害ーーステータス画面のデザインを変更できなかったのか、右下の余白に三角アイコンでジョブ着脱のボタンが追加されたのには、微苦笑しましたーーだろうとは察しながら、「日本人はゲームを作るのが、本当に下手になったなー」と思いました。最近、似たようなことを感じたゲーム、あったなー、なんだったかなーと考えていたら、ドラクエ3リメイクだった。

 ……などとブツクサ言いながらプレイしていたら、やっぱり出てきましたよ、現代都市が作中の古代都市として地下に眠ってるヤツ! あー、もう! こんな手クセのマンネリをいつまでも続けるくらいなら、前から言ってるみたいに、ファミコン版の女神転生2から関西をロケーションにして、順にリメイクしていきましょうよ! 梅田、なんば、天王寺、三ノ宮、四条あたりをダンジョンにして、奈良はフィールドマップで再現、東大寺、法隆寺、唐招提寺をめぐり、盧舎那仏、百済観音、鑑真和上をたおすと、興福寺の阿修羅戦がアンロックされる、簡単なメインクエストです! もちろん、文明は崩壊していますから、移動手段は徒歩のみとなります(暗黒微笑)。

映画「鬼滅の刃・無限城編第一章」感想

 それほど熱心なファンというわけでもないので、一般客が一巡して落ちつくぐらいの時期に行こうと思っていたのを、めずらしく家人がしめした興味にうながされる形で、「鬼滅の刃・無限城編第一章」公開初週の劇場へと足を運ぶ。すべての上映回において、通常のシアターが予約でほぼうまっていたため、アニメ作品をアイマックスで見る恩恵は少ないと知りつつ、わずかに席の残っていたそちらを選択する(2人横ならびは無理だった)。ニュース等で「首都における初日の単館40回上映がすべて完売」などの状況を仄聞してはいたものの、じっさいに昭和の映画館と見まがうばかりにごったがえすロビーや、2700円もの単価で学生や貧乏人などの客層をスクリーニングするために利用する、ふだんは10人も座っていないアイマックス・シアターが、老若男女で満席になっている様子を目のあたりにすると、めまいのするような大衆的熱狂への実感がわきあがってきた。上映終了後、三々五々、席を立つ観客たちの感想戦に耳をそばだてるのも楽しく、女子中学生とおぼしき人物が友人にする「わたし2回目やけど、アカザが死ぬとこ、寝てて見られんかったわ」という、最高に中2病な発言をナマで拝聴させていただき、背筋がゾクゾクした。(ドウマの顔で)うんうん、わかるよぉ。あんな回想シーンに心をゆさぶられたなんて知られたら恥ずかしいし、学校でウワサになったら困っちゃうもんねえ、わかる、わかるよぉ(ちなみに、家人の感想は「日本のアニメってすごいねえ。スーパーマンが幼稚に見えたわ」でした)。

 閑話休題。鬼滅の刃は、よい少年漫画だと思う。アクション描写が得手ではないゆえ、言語過剰になるという原作の弱点を、確かな漫画読みの目を持つ制作会社が超絶アニメーションによって補完ーー「アニメ版は下書きの清書」という評を見て、笑ったーーすることで、万人にとどく最強コンテンツにまで昇華した経緯も理解する。ただ、配信全盛のタコツボ時代に、ここまでの客を劇場へと誘引するような、社会現象となるほどの作品かと問われたならば、疑問符をつけざるをえないことも、また事実なのである。きょうは、この一種の巨大なフェノメノンについて、つらつらと思考をならべてゆきたいと思う。まず、すべての状況を言葉で説明するーー「歩きだした。どこへ行く気だ。止まったぞ」「左耳が聞こえなくなった。右手の感覚もない」などーーため、小学校低学年からアニメを見慣れない老人までのあらゆる観客が、100%同じ物語を受けとって劇場を去ることができるのは、小鳥猊下をふくめたすれっからしの”物語読み”が馬鹿にしがちな要素ではあろう。だが、「余白や行間を読ませる」しかけは、ともすれば創作サイドの自己満足になりかねない、知能と感性で受け手をふるいにかける行為でもある。この意味において、鬼滅の刃の作劇は「すべての”ご見物”を平等にあつかい、知性の高低で差別を行わない」とも表現でき、それが超ヒットの基盤を形成しているのかもしれない。

 また、作品テーマとしては、以前にも指摘した「利他と継承」が挙げられ、無限城編第一章を見ながら、さらに感じた追加の主題は「感謝と報恩」と「家族愛」であった。これだけの人気を博すようになった原作も、週刊連載の常として、読者からの反響をさぐりながら展開をつど軌道修正しているため、全話を通して読むとブレている部分はかなりある。攻撃と回避の技術は「匂い」「糸」「透明」とたがいにつながりなく場あたり的に変遷するし、主人公の血統をほのめかしながらじつは赤の他人にすぎず、修得したはずの最強必殺技は完遂できないまま終わってしまう。しかしながら、ヴィンス・ギリガン作品に通底する「コズミック・ジャスティス」を思わせる、鬼滅世界のすべてをおおう、まったくゆるぎのない一貫したスキームは、たしかに存在するのである。「鬼にも鬼になる理由がある」「人を食った鬼は必ず退治される」ぐらいの指摘はすでに星の数ほどあろうし、「縁壱の才能という集合に、物語中のすべての要素が包含されている」という小鳥猊下の評にも、感心させられるものがある。それらにくわえて、物語のもっとも中核的な場所を占めているのは、すでに公の場では口にしにくいものとなった、”一日一善”に類する「昭和の道徳観・倫理観」なのだ。友人が「私の母親は毒親でェ……」とめそめそ泣きだせば、「自分は両親を心から尊敬している」とは言いにくくなるし、同性愛のカミングアウトをした同僚に対しては、「つわりの妻を世話して寝不足ぎみで……」との弱音は口腔にとどまるだろう。年収の低さによる生活苦をなげく氷河期世代の友人を、老人ホームや障害者施設のボランティアに誘うことははばかられるし、インスタで旺盛な趣味の発信を行う独身者のいる職場では、2人の子どもがうつった家族写真を取りだすのには抵抗をおぼえることだろう。

 秘孔を突かれて全身の痛覚神経がむきだしになった、アミバのような(わかりにくい例え)人々と接するにあたり、良識的な多数派のとるもっとも賢明なふるまいは、「内心と私生活のいっさいを表明しないこと」に帰着するのである。米国におけるTRUMP PHENOMENONや、本邦でのSAY THREE PARTYの躍進を極北として、マジョリティ側が「沈黙の忍従を強いられている」と実態以上に思いこまされている”程度”のグラデーションが我々の日常の背景にあり、鬼滅の刃を社会現象へと押しあげる遠因になったのではないかと推察する次第である。すなわち、「弱きをたすけ、強きをくじく」「家族を持って一人前」「人への感謝を忘れずに」「恩返しの心」「おじいさん、おばあさんを大切に」「立って半畳、寝て一畳」「ご先祖さまに恥じぬよう」「お天道さまが見てる」など、もはや広言せぬほうがよいものとして、内心の自主検閲に黒塗りした”人の道”が、鬼にむかって大音声で説法されるのを聞く快感は、まちがいなくあると思う。個人的なことを言えば、最高学府の法学部を卒業した人物が、持てる能力を薄給のビューロクラットとして民草にそそぐのではなく、高年収の外資コンサルファームにささげる利己の時代において、「オマエもかつては弱かったはずだ! 弱い者を助けるのは、強い者の責務だ!」と寸分の迷いもなく、怒りとともに断言する主人公の姿を見て、かなり胸のつかえがとれたーー「あ、それ、言ってもいいんや」ーー感覚は、まぎれもなくあった。

 以前の感想にも書いたように、現代を生きる子どもたちが、もはや大人たちはおもてだって口にできず、そちらへ教え導くこともはばかられる、「利他と継承」「感謝と報恩」「家族愛」について、この作品を通じて学ぶことができるとするならば、もしかすると冗談めかして聞こえるかもしれないが、本邦の未来はきっとよりよく、明るいものになるだろうという予感がするのである。あと、制作会社による「無限城のレンダリングに3年をついやしたので、3部作の完結には10年かかる」との談話を知り、だれもそこに力を入れることを望んでいないという点で、「スターウォーズ3における、惑星ムスタファーの溶岩みたいだなー」と思った。

映画「スーパーマン」感想

 キメツによって劇場を占拠される直前にすべりこむようにして、アイマックスでスーパーマンを見る。以下は、2006年公開のスーパーマン・リターンズにおけるスタジアムの場面を、こよなく愛する人物による感想です。「いまさら、この超有名ヒーローの設定説明を必要とする人間なんて、地球上におるめえよ」とばかりに怒涛の冒頭キャプションだけで作品世界のビルドアップをすませたあとは、「3分前:スーパーマン初の敗北」から当該の人物がナナメにスッとんできて雪の大地へと激突するという、じつに人をくったオープニングにはじまり、DCコミック版のリブートというよりは、「ジェームズ・ガンのスーパーマン」とでも名づけたくなるような、ユーモアたっぷりの演出が続いてゆきます(特に、格納庫のシャッターがゆっくりと、それこそ1分ほどかけたワンカットで開いていくのを見せるシーンは、スーパーマンというよりガーディアンズ・オブ・ギャラクシーの文法になっていました)。ストーリー展開としては、「膨大な体力ゲージを持つオポネントに対して、初撃が当たれば無限につながるコンボの完遂をねらう格闘ゲーム」がずっと続く感じで、レックス・ルーサー側へ感情移入できれば手に汗をにぎれるのでしょうが、スーパーマンのファンはカタルシスの爆発を延々とひきのばされて、イライラすることうけあいです。また、他のヒーローたちと共闘する姿は新鮮でしたが、「あらゆる生命を助ける、リスも助ける」場面はシリアスなのかギャグなのか、はたまた、このリスがのちの派生作品でヒーローになる伏線なのか、いだくべき感情がわからなくて困惑しました。

 物語のクライマックスにおけるスーパーマンのスピーチは、過去の失言をツイッターから掘りおこされて、監督降板にまでいたったジェームズ・ガンその人が憑依したような内容で、数テイクは撮影しているはずなのに、少々ドモッてロレツのあやしい部分があるものを採用していて、おそらく熱量が優先されたのでしょう、舞台演劇をナマで見るような迫力がありました。そのあとに続く、あれだけ饒舌な道化師であったレックス・ルーサーが、ただ無言でスーパーマンをにらみつけながら静かに涙を流すシーンでは、「永遠の日陰者であり、けっしてヒーローにはなれない者」の玄妙きわまる感情を、同じ属性を持つ小鳥猊下としてモロにくらってしまい、「泣くなや! なに、泣いてんねん!」と言いながら、いっしょに泣いてしまいました。「中東のユダヤ国家によるホロコーストを免罪符としたジェノサイド行為」に対する強い批判が、本作にはこめられているとの指摘があるようですが、日々のニュースを心に留めないよう聞き流していたつもりで、ずっとフラストレーションが溜まっていたことに気づかされました。なぜなら、ただのフィクションであるにもかかわらず、鑑賞後にかなりその溜飲が下がってしまった感覚があったからです。これはすべての物語がおのずと持つ癒しの効果にはちがいありませんが、本作の高評価にその事実がいくばくかでも寄与しているのだとすれば、きわめて危険なことのようにも思います。それは、虐殺の現場にいない者たちのストレスを慰撫しているだけであり、現在進行形で殺されている者たちとは、なんの関係も連絡もないからです。「創作者によるフィクションの効能とメッセージ性へ向けた過大なまなざし」には、適切な批判が必要なように感じました。監督色がマーベルの「工業製品っぽさ」を越えた独特の”読み味”を本作にあたえていることはまちがいありませんが、同時に時事色にもドぎつく塗られた最新のスーパーマンを単純にシリーズのリブートとしてあつかっていいのかについて、個人的には疑問が残ります。

 あと、よい大人のnWo(猫を起こさないように)は25年前から猫派なので、皆様が話題にするマントをはおったテリア犬の愛嬌と狼藉は、特に刺さりませんでした。

雑文「Apocalyptic STARRAIL and Continuous GQX」(近況報告2025.7.10)

 崩壊スターレイルの最新バージョン3.4を読了。メインストーリー部分は、もはやゲームとして遊ばせる努力を放棄しているが、ナタ編後半で投入されるシナリオがことごとく失速ぎみの原神に比べると、たいへん高い熱量がこめられていて、大いに作品世界へと引きこまれた。先に予測していたように、オンパロスは無限の演算能力を持つ装置による”シミュレーテッド・リアリティ”であることがついにあきらかとなり、これまでに体験してきた「世界の崩壊へとむかうギリシャ悲劇」は、登場人物を同じうして3355万335回くり返されてきたことが示される。「膨大なテキストと細密な演出でつむがれてきた人々の想いは、それでもなお、プログラムされたフィクションにすぎず、現実との連絡は絶無で少しの影響もあたえられない」という絶望は、おそらくホヨバという会社が市場での規模を拡大させる過程にいだき続けてきたもので、神の被造物である人間を似姿とした人形が、ハードロックをBGMに神へ一矢むくいるという手描きのアニメーションは、「若く青くさい、熱情の切実さ」ゆえに強く胸をうった。この「虚構から現実への反逆行為」の実行者であり、のちにオンパロス世界の観測主体だとわかるファイノンというキャラクターは、壮麗かつ破天荒な綺羅星の如き他の英雄たちとは異なり、勤勉かつ実直な良識人として描かれてきた。失敗にいっさいの言い訳をせず、おのれの弱さを認めた上で、日々の鍛錬でそれを克服しようとする姿勢は好ましいものの、いささか生真面目すぎて人間的な魅力にはとぼしいと言わざるをえない。「親は婿として欲しがるが、娘は恋人に選ばない」タイプの、やや面白みに欠ける人物なのである(崩スタ未プレイ勢には、ジークアクスのエグザベ君を想起してもらうとわかりやすいと思う)。のっぺりとしたその特徴のなさは、じつのところ、驚愕の謎解きへと転化するための、「ミステリー小説における、真犯人からの視線そらし」であったことが判明し、アベンチュリンを前例に経験していたにもかかわらず、まんまと同じ手口にひっかかってしまったわけである。

 さらに、3355万335回のニーチェ的”永劫回帰”を追体験するパートは、古いオタクのたとえながら「エンドレスエイト」を想起させ、薄暗いシアターでプレイしていたことと相まって、ほとんど気がくるうかと思った。「観測者にとって”正しい”世界を求めて、無限個の試行をくり返す」物語ギミックは、太古のエロゲーであるデザイアがその原型を考案し、まどマギなるコピーキャットによって爆発的に人口へと膾炙させられたものだ。同様の物語類型として、直近ではジークアクスが記憶に新しいが、本作においては明確に次回のコラボ先でもあるFateの本歌どりを意図したのだろう。ここでまた、ジークアクス方向へ脱線しておくと、総集編による劇場版やブルーレイ販売の予告が、不自然なまでに避けられている現状について、いまにしかできない予想を述べておく。各話タイトルに話数の表記がないことから考えて、ズバリ、テレビ放送した12話へ新作の12話プラスアルファを挿入した「全26話の完全版」制作が、水面化で進行しているのではないだろうか。スタジオの体力面と金銭面での不安は、今回のメガヒットによって払拭され、パッと思いつくままにならべると「省略されたクランバトル回」「コモリ少尉とエグザベ君の交流”回”」「主人公とコモリ少尉の親睦”回”」「主人公失踪後の母親・同級生・運び屋回」「主人公とヒゲマンの特訓回」「アルテイシアと本ルート生存者の暗躍回」「最終話のエッセンスを3話に拡張(シュウジのループ回含む)」「登場キャラそれぞれの後日談」ぐらいのエピソードを、完全版において物語の大きすぎる余白へ埋めていくはずだと放言しておこう。

 ここからさらにアポカリプスホテル方向へと脱線し、本テキストは崩壊スターレイルという本筋から離れて、複線ドリフトしたまま終わると思われる。同作を最終話まで見たのだが、ゲストキャラにとどまると考えていたタヌキ一族が物語の中心にすえられて、主人公の属性である”永遠と停滞”の対比として「時間経過による成長と変化」を担当することになったのは、意想外の展開だった。6話までの感想にも書いた「昭和の風俗紹介」という印象は当たっていて、未確認飛行物体を召喚する呪文からはじまり、セーラー服反逆同盟(!)を思わせるスケバンのいでたちーーパーマネント、紫のチークとアイシャドウ、足首までのロングスカート、風船ガムという徹底ぶりーーまで、あると信じていたメインストーリーそっちのけで、徹底的に脇道のスラップスティックをつらぬく”ひらきなおりっぷり”には、もはやある種のすがすがしささえ感じたぐらいである。やがて、その「ドタバタ無法」は、結婚式と葬式を同時に挙行したあげく、祖母の遺体を手品の余興でもてあそぶという、往年の筒井康隆を彷彿とさせるブラックユーモアの絶頂へと達するのだった。ロボットたちの創造主である地球人が帰還する最終話にも、期待していたような”コッペリア的悲劇”はみじんも混入せず、最後の最後まで人をくった展開のまま、物語は幕を閉じてしまう。全体として、昭和末期から平成初期に国営放送で全52話が放送されていたアニメのサブシナリオだけを集めたような構成になっていて、これはもう国営放送で全52話のアポカリプスホテルを制作するしかない(政治家の名を冠した、例の構文)。終わる。