美少女への黙祷(3)
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その日、全国各地で爆発事件が起こった。
マンションの一室、住宅街にある一戸建ての二階、環状線の車内、大学構内のサークル棟――何のつながりもないように思える様々な場所で、連鎖的に爆発が起こったのだ。
ニュース速報のテロップはやがて緊急特番へと変わり、カメラはめまぐるしく次から次へと炎上する現場を映した。被害の状況はとぎれることなく画面上へ更新されてゆき、時間の経過につれて死傷者の数は等比級的に増えていった。
最も被害が大きかったのは秋葉原や日本橋など、全国各地に存在する巨大電気街だった。爆発の現場となった店舗では、例外なくアダルトゲームが販売されていた。多少の時間のずれや規模の大小はあったようだが、無数のおたくたちが集うその場所は阿鼻叫喚の巷となった。
悲鳴を上げる血濡れのおたくたちの様子が、巨大美少女の垂れ幕や看板と共に画面へと映し出される。それを見た人々は、いったい何を感じただろう。同情や憐れみでは決してない。その異様な光景は、この事件の主謀者への憤りをすらかき立てない。人々が感じた最初の気持ちはあらゆる良識的な感情を圧倒して、嫌悪だったはずだ。
ある番組で一人のコメンテーターが、今回のおたくたちへの災禍はむしろ当たり前の罰のようなものだと発言した。爆発が起きたのは平日の昼間であり、そんな時間帯に年齢制限のある異常なゲームを買いにいくようなおぞましい人種に同情の余地は無いという内容である。CM明け、すぐに謝罪とともに発言は撤回されたが、それはきっとこの事件に関しての大多数の気分を正確に代弁していたのだと思う。
調査が進められてゆく中、小型ハードディスクを供給メディアとして販売していたアダルトゲームから、セムテックスと呼ばれる爆弾と電気信管が発見された。
そのゲームのタイトルは、”甲虫の牢獄”といった。
すべての番組が、同じ一つの事件に言及していた。自室のテレビの前でリモコンを操作しながら、ぼくは何が起こっているのかほとんど正確に把握できていなかった。新聞やニュースは外国人グループによる同時テロの可能性を示唆する報道を繰り返し、ぼくは結局のところ自我と知性をこの寛容な社会に無理矢理広げられてしまっただけの凡人で、思想もなく現実へ対処する手段もなく、ただただこの事件が行き着く先に脅えるだけだった。自分の巻き込まれてしまっている現実を俯瞰するのに、ぼくはあまりに何も持っていなかった。ある日、ぼくの部屋の扉が踏みやぶられ、荒々しい現実がぼくを蹂躙してゆく――あんなに待ち望んでいたはずのその破滅を、ぼくはひたすらに恐れていた。
高天原の元に集まった人たちと連絡を取ることを考えたが、彼らの本名や素性を全く知らないことに気づく。実際、ぼくは何も知らされていなかった。高天原は彼の計画の詳細について、ぼくに何も話していなかった。ぼくはずっと、高天原がぼくにささやいた革命とはゲームの中身によるものだと無邪気に思いこんでいた。
高天原はこれを意味していたのか。これは革命どころではない。これはただのテロルではないか。高天原はぼくにそれを暗示しながら、最後の一線では言葉による変革を信じていなかったのか。
テレビ画面にはもう幾度目だろう、炎上して黒い煙を吐き出す量販店の入り口から、悲鳴を上げながらおたくたちが転がりだしてくる様子が映し出されている。そして、それを見下ろす巨大美少女の恍惚の表情。
事件から一週間後、高天原は自身の生家で身柄を拘束された。彼の生家は近隣では名前の知れた素封家であるとのことだった。高天原には重度の脳性麻痺のために寝たきりの妹がおり、警察が踏み込んだとき、彼はその枕元に正座して妹の顔を見つめていたそうだ。
見慣れぬ彼の本名と顔写真があらゆる手段で世間に晒された。女性週刊誌に掲載された記事のタイトルに荒い粒子の下から無表情で見返してくるその人物は、ぼくの知っている誰かではなかった。
高天原はずっと見つめていた。ぼくたちではなく、彼自身の虚無を。
ぼくには結局、戻る以外の選択肢は無かった。
一年ぶりの帰宅。玄関先で靴を脱ぎながら、押さえようもなくこみ上げる懐かしさへぼくはほとんど絶望を感じた。その感覚を前にして、これまでぼくを束縛し続けたものは嫌悪や憎しみでは無いことを認める他はない。それは、我が身に痛みが無いことへの依存と、罹患した豚が元の無菌室に戻されたときに感じるだろう安堵と。
自室へ戻る前にトイレを使おうとして、家人とはちあわせする。
もしかしたら捜索願のひとつも出ているのではないか、と思っていた。ぼくは現実を常に甘い夢想と重ね合わせようとする。表面では拒絶するような素振りで、心のずっと深い底では幻想と現実が一致する瞬間がやがて訪れるだろうことを塵ほども疑うことがない。
「コンビニに行ったのかとばかり……」寝間着の上に半纏を着込んだその人影は、ぼくと目を合わせないようにして言った。
ぼくは笑った。笑いながら涙を流した。
この人たちにはぼくがいようがいまいが、何の違いもないのだ。
夜の淡い空気の底でにぶい光を放つ五百円硬貨。
その硬貨に背を向けるという選択肢が無くなっていることにぼくは気づく。
何がいけなかったのか、ぼくのどの行動が選択肢を消してしまったのだろうか。高天原は、ぼくの生を革命したはずではなかったのか。
いや、わかっている。高天原の言葉に身を預けるだけで、ぼくは自分が何かに変わることができるような気がしていた。自動車の速度と自分の速さを同じだと考える愚かさならば、誰にでもすぐにわかるというのに。
自室のベッドに横たわり、考える。もう時間は無限にあった。
高天原はぼくの弱さに、ぼくの立ち往生に、自分が責任を負っていると言った。高天原がぼくに求めていたのは、きっとぼくのつたない言葉ではなかった。きっとそれは、ぼくが属している人たちが作り出している時代の雰囲気そのものだったのだ。高天原はただそれを身近において、観察するためだけにぼくを選んだのだろうか。もしかすると、高天原はぼくが変わっていくことを望んでいたのではないか。いまになって考えれば、高天原のすべての言葉はこの事件と符号する。彼は気づいて欲しかったのか。
引き金を引いたのは誰だ。高天原を踏みとどまらせる方法が、選択肢があったのではないか。
いったん思いついてしまうと、その問いがずっと頭を離れなくなった。
ぼくの生活パターンに加わったのは、ネットで高天原とその事件の情報を集めることだった。
過激派どころではない、アダルトゲームの制作者が犯人であるとわかると、その動機についての様々な憶測が乱れ飛んだ。ひとりの犯罪者のせいで我々全体がその予備軍のように言われるのは心外であるという、おたくの側からのおきまりの反論もあった。だが共通するのは、誰も高天原勃津矢という人間の真意をはかりかねていたということだ。裁判の傍聴を求めて、抽選には長蛇の列ができた。
この事件において被害者本人はもとより、その家族や関係者から提出された被害届は到底爆発での死傷者の数に見合うものではなかったという。誰も自分や自分の子が”エロゲー”を愛好していることを世間に知られ、異常な嗜好を持った所謂”おたく”の住処と同定されることを望まなかったのだろうとぼくは思った。高天原の言った”二度と復帰のかなわない場所”に、彼らはいたのだ。
2002年3月某日、高天原事件の初公判が行われた。「動機として極めて不可解」とされた罪状認否での彼の発言だが、ぼくには理解できるような気がしたものだ。例えそれが高天原との関係を肯定したいがゆえの、一方的な思いこみによるものだとしても。
「すべて私ひとりでやったことですが、それは誰も私の計画に荷担しなかったということではありません。共犯者は確かにいます。みなさんは、おたくたちを許してはいけないのです。おたくというものはガン細胞のように自己増殖を繰り返して、いつかこの社会を根本から別の何かへ置換してしまうでしょう。みなさんの知る現実の、究極的な死です。いまのような寛容さでおたくたちを許していれば、みなさんの築き上げてきた尊厳はついには死に絶えてしまうでしょう。話し合いによる懐柔や、支援によるみなさんへの同化は、ガン細胞のメタファーがそのまま示すように不可能なのです。ガン細胞は正常な細胞を上書きできますが、その逆はかなわないのと同じことです。おたくたちと対話してはなりません。おたくたちの応答はすべて刺激に対する反射であって、人間の真情に根ざすものではないのです。私がおたくたちをここで悪しざまに申し上げるのは、他ならぬ私がこの致命的な文化活動により染め上げられた存在であるからです。私は自分の内面の無機質さと荒涼を知っているのです。私は人間について書かれた過去の書物を読み、この二十年をかけて私が人間と定義される存在ではないことを理解しました。私はそう、甲虫なのです。ただ反射を繰り返すだけの、殻を伴った感情の乗り物なのです。他人を傷つけない限り、と人道派のみなさんはおっしゃいます。多くの人たちを傷つけ殺しさえした私はここへ引き出されていますが、おたくたちはみんな私と同じなのだと考えて下さい。犯罪的行為と犯罪的思考の間にある無限の距離をみなさんはおっしゃいますが、爆弾は爆発せずともやはり爆弾でしょう。日常の側に置いて安楽とできるものではないはずです。この社会では私たちを人道派の”他人を傷つけない限り”を守ってさえいれば、ただ無いもののように扱ってくれますが、私たちはこれまでみなさんが積み上げてきた人間の尊厳を、ただそこにいるだけで深く傷つけているではありませんか。みなさんの側にいる私たちを少しの時間を割いて観察していただければ、それは自然と理解されるはずなのです。……私は、自分自身が憎いのです。憎いという表現は正確ではないかもしれません。多くの人間についての記述に当たり、そのどこにも私たちの中身を正確に言い表す言葉が無いことを発見しました。つまり、人類の過去を見て、現在を生きるみなさんを見て、そして人類の向かう未来を見て、私たちの存在は必要無い以上にむしろ害悪であることが、客観的に理解できてしまったということです。おたくたちはそれを意識するにせよしないにせよ、地球上で”客観的な自己憎悪”を得た初めての存在なのです。私をこうしてしまったおたくたちの文化の有り様が、私は心底恐ろしいのです。私はずっと、おたくたちがなぜ誰ひとりとしてこの自己憎悪を表明しないのか、不思議で仕方ありませんでした。声高な自己肯定や上目づかいの温情哀願、みなさんの、人間の言葉を使っての自己定義の試み――これらはすべて違うのです。従来的な方法では説明のつかない、人間と甲虫の中間のような異質の自己憐憫が、外殻で覆われた心の中に核としてあって、それが私たちに衝動を与えてみなさんに害をなしているのです。少女を誘拐して弄ばせたり、実の両親を殺害させたりしているのです。私たちがしているのは、言ってみれば人間の真似事に過ぎません。ですから、批判したり、論評したり、理解したりする時期はもう終えて、ただ私たちをみなさんの社会から排除して欲しいのです。真剣に考えてください。例えば私たちが人間の配偶者とつがい、子をなす可能性は極めて低いと言わなければならないでしょう。私たちは、エロゲーに書かれている現実のものではない美少女キャラクターを愛好します。もしかすると、生殖能力を持つ以前の現実の少女にその執着を転移させることもあるでしょう。なぜなら私たちの自己憎悪はあまりに深刻すぎて、その無意識は私たちから自己の再生産の可能性を注意深く取り除かせているのです。憎悪を我のみに留めて心中する気概があるならばそれはやがて聖者となりましょうが、私たちは他者へつながりを求める歪な欲望を抑えることができない。生物でありながら次世代へつながらない生殖のみを求める私たちの異様な感受性を想像して下さい。みなさんの中に私たちを容認する気分があるとすれば、それはまだ私たちの文化が百年を存続していないからだと警告します。一組の男女から一人の子しか生まれてこなければ百年で人口は半減する計算になります。もし誰も子をなさないのなら、この社会は百年で消えてなくなるでしょう。この社会の全員がエロゲー内の美少女キャラクターへ本当にまぎれもない心の底からの恋心を抱くような冒涜的日常にかかりきりだとしたら! そうなってから後悔しても遅いのです。こういう極論でこそ私たちのしている人間なるものへの侮辱、救済の無い真の悪徳がよりよく理解されるはずです。おたくが増殖してゆけば、みなさんの社会は形を変えるどころか早晩滅んでしまうことが、おわかりいただけるでしょうか。盲目なガン細胞が母体をも殺して自滅するように、私たちはみなさんのことを考えてなどいません。みなさんのお子さんを誘拐し殺害する、一線を越えてしまった同胞に対してさえ、おたくたちはこんなふうに言うのです――やれやれ、馬鹿なことをしたものだ。ぼくはモニターに映った美少女キャラクターだけを陵辱することにしよう――この異様な言動ですら、私たちにとっては甲虫の雄が雌の背中に背後から舞い降りる気軽さでしかありません。私たちは何の意識もせずに、呼吸をするように人間性の本質を貶めることができるのです。ガン細胞のように、生きるために宿主を痛めつけねばならないという切迫感にいつも促されている。私はみなさんが私たちの言動に対して憤りを感じることを知っていますが、どうして憤りを感じるのかを実感することはできません。なぜなら私たちの中身はみなさんとは完全に異なっているからです。甲虫に人間の倫理を説いたところで理解できないし、たとえ理解したところで実感やまして実行は不可能なことはおわかりいただけるでしょう。……十五年前のあの事件のとき、私は安堵したんです。これでようやくみなさんが私たちをつかまえて自分たちとは違うと指さして非難し、私たちをかわるがわる殴打し、私たちのいるべき場所へ連れていってくれると思っていたのです。しかしあの事件は個人へと集約していき、みなさんはその記憶を風化させ、また別の生贄を私たちに捧げるはめになってしまった。いまや私たちは、あろうことか自分たちをみなさんに肯定させるための何人かの腕ききの外交官まで作り出して、みなさんの社会の中へ再び版図を盛り返しつつあるのです。本当に、これが最後のチャンスなんです。私の共犯者は、この社会に存在するおたくたち全員です。あなたの息子はおたくじゃありませんか。あなたの隣人は、あなたの友人は。さあ、探し出して下さい。人間のふりをする、あなたの側にひそむおたくたちを! どうか、どうか私を最後のチャンスだと思って下さい……」
ぼくは想像する。高天原はきっと、あの瞳に明確な意志を浮かべながら言ったのだろう。しかし、モニターの明滅に浮かぶ文字列から高天原の姿は見えなかった。
では、高天原の革命とは断絶された究極の個人であるおたくたちを巨大な災厄で一様化することだったのか。おたくたちはまず無惨に踏みにじられる必要があると彼は言った。生の澱のよどみから再生するために、一度ばらばらに解体される必要があると。例えそれが死の危険と背中あわせだったとしてもおたくたちはそれだけの荒療治を、祖父の人生を規定したような圧倒的な破滅を必要とするところまで来てしまっていると高天原は考えたのかもしれない。しかし、高天原の問いかけにおたくたちはただひたすらに沈黙するばかりだ。
本質的にrebellionが不可能である苛立ち。
それはつまり、何をしようとも痛手を与えることはできないという無力感であり――どんなに泣こうとも誰も自分を振り向かないということと同質の哀しみだろう。
象に触れる群盲のように、自分たちが触れているものの正体はわからないまま、手の当たった箇所を肉ごとむしりとって饗する。眉をしかめ、痛ましい表情でする娯楽の数々。高天原が報道される。ありとあらゆる形で、高天原が報道される。彼が目の前でバラバラに解体され殺されていくのを、ぼくはただ腕をもみしぼって見守るしかなかった。
何よりも恐ろしかったのは、高天原について書かれた記事にある人物の評伝から言葉が引かれているのを見つけたときだ。その言葉はあまりに的確に高天原を言い表し、相対化し、無化しており、ぼくは読んだ瞬間に寒気を感じた。すべての熱情に相当する言葉がこの世にはすでにあり、言い当てられてしまった熱情は即座に冷えて死骸となる。
そこにはこう書かれていた。「自分が迫害されていると思うことを彼は好んだ。現実から異端者として疎外されることは、彼の孤高を賞賛することであり、自分が選ばれて磔刑にされている荒ぶる神であることを証明することであった」
しばらくして、多くの人々が死傷する別の大きな事件が起きた。途端に高天原の扱いは新聞紙面の隅に追いやられ、ニュース番組で言及されることも少なくなった。世界の優先順位は時間軸の先端にあり、堆積によって上書きされた現在の表面に見えるものだけが人々の関心を得る。もし見知らぬ他人の意識に留まり続けることを望むならば、それは行為の連続によってのみ可能となるのかもしれない。しかし、高天原がそれに気づいていなかったはずはない。だとすれば、ぼくが高天原に加えるべき言葉は何も無い。世界は日々新しい出来事へと上書きされてゆく。その速度は驚くほど速く、社会そのものがあらゆる事件に本質的な痛痒を感じていないことの証拠のようにも思える。象の如き蚤をまとわりつかせる恐ろしく巨大な生物としてただ悠然と存続し、象のひと暴れも象の死も、そこには何の影響もない。すべては瞬時に移り変わり、誰も追いつき続けることはできない。バケツリレーのように、次の手へバケツを渡してしまうと、後は取り残されたままそこに突っ立っている他はない。動き回るバケツの速度に皆が関与しながら、その実、誰もそこに関係がないのだ。
高天原勃津矢の後でさえ――ぼくは思う。
きっとおたくたちは許され、いつまでも変わらず在り続けるだろう。
夢を見た。あの夢だ。
細長い岬を多くの人間たちが一列になって、粛々と歩いてゆく。
その左右は崖になっていて、底は見えない。
周囲を白いもやが取り巻いていて、見通しはほとんどない。
列を乱す者はいない。列を乱せば、墜落するしかないからだ。
進むにつれて、足下はどんどん狭くなってゆく。
ときどき、谷底へと落ちてゆくものがいる。
黙って落ちてゆくものもいれば、泣き叫びながら落ちてゆくものもいる。
しかしどちらも、ただ落ちてゆくのだ。
次第に、周囲を取り巻いていた白いもやが晴れてゆく。
岬は先細りの果てに、ついにその先端へと収束している。
もうその先に道はない。
ひとり、またひとり、岬の先端から落ちてゆく。
黙って落ちてゆくものもいれば、泣き叫びながら落ちてゆくものもいる。
しかしどちらも、ただ落ちてゆくのだ。
やがて、ぼくは自分がその緩慢な行進の最突端にいることを知る。
ぼくは大きく後ろを振り返り――
そこで目が覚める。半身を起こすと、全身が寝汗でびっしょりと濡れている。
人類の緩慢な死への行進の最突端で、大きく後ろを振り返ったぼくは――
そこに誰もいないことを見た。
人類の積み上げてきたすべての尊厳が、ぼくと共に死ぬのを知ったのだ。