誰かが言いました。
「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」

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「塀の中から発言をする、というのは非常に象徴的でして」
 分厚いガラスの向こう側から、スピーカーを通じた声が響く。事前に予想していた感慨を何も持たないでいる自分に気がついた。男の声が含む一種の魔的な力を弱める効果はあるのかもしれない。
「評論家たちが取る立ち位置の、現実に対する効力感の欠如へ、風刺的にまとめて言及することができる点でね。時折、類似の事件に際して、思い出したように君のような人物が面会にやって来る。おそらく、言葉の足りない、論理の裏づけの希薄な反社会的行為というものに耐えられなくなって、おしゃべり好きな奇人へ、気のふれているなりの理由を解説して欲しいんだろうと思う。社会の堅牢さを維持するには、その構成員の過誤を一種の論理エラーとして捉えねば、矛盾として、つまりはそれを取り除けば正常な機能を取り戻せるという意味でのバグとして排除することが困難になるから」
 男の顔にはいくつかの青痣が浮かんでおり、薄い唇には切れた跡があった。視線に気づいたのか、奇妙に官能的な仕草で傷口をなぞる。
「うとまれるのには慣れているが、うとまれるときの度合いというのが、いつも尋常ではなくてね。昔からです」
 自嘲的に顔を歪めると、傷にさわったのか、眉をわずかにしかめた。男の背後には刑務官が直立しており、普段の生活では意識しない、非人格的な、ゆえに人間を斟酌しない公というものの圧力を私に思い出させた。
「いまや人々は、与えられた民主主義になじまず、望んだ社会主義を選択しようとしている」
 思考を読まれたような錯覚に驚いて、視線を戻す。
 色素の薄い瞳。向けられる両目の奥に、私はそれまで気づかなかった異様な光を察知した。
「現在を食い荒らすポピュリズムは、万人の未来を担保にしている。あらゆる特権は部屋の端から絨毯をめくるように剥奪されてゆき、それは同時に、目指すべき峰々と頂を喪失した登山家の絶望にも似て、未だ何も為さぬがゆえの希望を抱いた人たちへ迫る。己の能力に見合う専門性を突き詰めてゆくことから生じる称揚感は人間の向上に不可欠な要素だが、それさえも待ち受ける罵倒に著しく弱められることをあらかじめ予期せねばならない。より良くありたいという魂の本来が、低きへの同調圧力により否定される。これから始まる人たちに共通する不幸ですね。やがてビューロクラットたちへすべての特権は集約され――」
 そこで男は刑務官の方をちらりとうかがうと、わずかに声をひそめた。私は冷ややかに考える。ここでの会話はすべて記録されているはずだ。だとすれば、その行為は文字通りの芝居に過ぎない。
「――つのる不満の解消はバンドワゴンの方法を以って為される。つまり、社会の構成員一人ひとりが他の構成員たちによる一斉の攻撃対象である一時期を受容した、憎悪の持ち回りが始まるのです。憎悪は定常しません。憎悪にも、新鮮味が必要というわけです」
 男は、それがひどく面白い冗談であるとでもいうように、くすくすと笑った。
「そして、構成員のすべてが憎悪をリレーし終えたならば、他の民族、他の国家へと転移の先を拡大する。究極には、いくつかの民族ないし国家との、破滅や覇権を“賭けない”恒常的な戦争状態を作り出すことができれば――」
「オーウェルですね」
 思わず、口を挟んでいだ。呵成な、しかし一方通行の言葉に飲みこまれそうになったからだ。ここに至り、発言の内容というよりは、抑揚や声の調子こそがむしろ危険なのだと気づかされる。
 男は、気勢をそがれたような表情で、手のひらをこちらへ向けた。
「いや、すまない。ホラ吹きの、誇大妄想の習い性で、ついつい話が大きくなってしまう。もはや自分に関係ないものとして天下国家を論じるときの快感は、ちょっと何事にも変えがたいからね。語ることは伝えること、伝えることは教えること、そして、教えることは成すをあきらめることだと言う。君がわざわざ面会を求めてきた理由について、もっと配慮をするべきだった」
 言いながら、軽く頭を下げる。高まりつつあった先ほどの熱気は、嘘のように消えていた。感情の振幅よって受ける印象が全く変わってしまう。不思議な人物だ。
「では、単刀直入に君の聞きたい言葉を言おう。『現在、この国において、テロは非常に有効な手段だ』」
 今度は淡々とした言いぶりだったが、言葉の内容そのものが瞬時に私を縛りつけた。
「例えば、君は田舎路線の怠惰で不機嫌な駅員だ。ときどきの理不尽なクレームを除いては、微睡むように日々を過ごしている。今日もバケツを片手に、アンモニア臭のこびりついた駅構内のトイレで、乗客の小便や大便へモップをかける。経費削減の折、清掃業者も快速の止まらぬこんな小さな駅にはやってこない。この仕事が嫌で嫌でしょうがない君は、ある日、ネットで手に入れた毒――水溶性で、粘膜から吸収されるヤツだ――を密かにトイレットペーパーへと染み込ませる。声明があれば、なお効果的だ。一週間も経たないうちに、沿線すべての駅構内にあるトイレは使用禁止となり、君はときどきの理不尽なクレームを除いては、汚物処理から解放された日々を心安らかに過ごすことができる」
 馬鹿げ例えばなしだ。そう考えた瞬間だった。
「そう、馬鹿げた例えばなしだ」
 まただ。まるで私の思考を読んだかのように、男はうなづいた。
「何より、達成される結果のくだらなさと、己の社会生命を永久に失う危険性とが、全く釣りあっていない。この二つを釣りあわせる方法は、論理的に考えて二つだけだ。ひとつは、人生を投げうつほどの大義を、もたらされる結果に与えること。もうひとつは、個人の価値をもたらされる結果の矮小さにまで縮減すること。おや、我々の社会が抱える危機の正体がどうやら見えてきたな」
 男はいまや、間近で遭遇した草食獣を見る肉食獣が持つ確信で、ことさらにゆっくりと身を乗り出してみせた。
「個人の価値は、その内面的な膨張とは真逆のベクトルで、急速に消失の地点へと向かいつつある。一度その事実を何の虚飾もなく直視してしまえば、反社会的行為へ己を投げ出すのは、至極簡単な仕事になる。恋愛やアイドルや虚構やエロや、そんな安い充足さえ、やはり充足なのだという単純な人間心理に思い至らず、総じて何らかの規制へと向かう昨今の動きは、社会にとっての錆びついた安全装置を外そうとする試みに他ならない。やがて可視化した因果に青ざめることになるのだろうが、私にとってそれはまずまず素晴らしい、満足のできる結末のひとつと言えるだろうね」
 私の心中を直接に値踏みするかのように、色素の薄い両目が細められた。
「君はまだ、ふりをしている。理解できないふりを。メディアは『不条理な暴力に屈してはいけない』と言う。いずれも判で押したようにだ。しかし、言う者も聞く者も、実感など持ちはしない。なぜならそれは、台本に書いてある、反社会性に対する定型的な応答に過ぎないからだ。一線を越えてしまった者たちの切迫感や熱には及ぶべくもない。両者の関係性を人々に連想させないための冷却期間を置くほどには、この社会は賢明だが、現に首都の電気街で発生した事件は法改正にまでたどりついた。その実行犯の願いをかなえるが如く」
 私はそのとき、ある種の惑乱状態に陥っていたと思う。なぜなら男の言葉は、長らく私の脳髄を占拠していた妄想と合致してしまっていたから。
「乱立する新興メディアを含め、一億が放言する無秩序さの中で、誰も君の言うことに耳を傾けたりはしない。唯一、大勢から耳目を集めることができるのは、一定の歳月に耐えた能力者か、社会秩序の擾乱に繋がる規模の犯罪を行った者だけだ。もっとも、準備はしっかりとしておくことだ。与えられるのは、構成員の多数へ向けた発言のチャンス数回でしかない。だが、過剰に恐れる必要はない。個人的な経験から言えば、ほとんどのメディアはよりセンセーショナルな報道を求めるという点で、内容を吟味できるほど賢明であるならば、むしろ我々にとっては味方となりうる。必要なのは、一つの生と一つの主張との等価交換を是とする気概だけだ。本来、個人が微温的な安寧を拒否することは、簡単ではない。しかし、社会から十全に許容された人間が、私などの話をわざわざ聞きたいと考えるとは思えない。だとすれば、答えはすでに、君が独力でたどりつける場所にあるはずだ」
 男はゆっくりと片手を持ち上げると、私の胸元を指差した。適切な返答を思いつくことができず――何よりこの会話が記録されているのだという事実と、背後に控える刑務官とにひどくうろたえてしまい――面会時間を残したままコートを手に取ると、曖昧な暇乞いと共に私はあわただしく立ち上がった。
「もうないとは思うが――」
 ドアノブに手をかけたところで、背中に声がかけられる。
「また私を訪ねる気持ちになったら、次は何か甘いものを差し入れてくるとありがたい。最近どうにも、脳の働きが悪くなってね」
 ひどく面白い冗談を言った、とでもいうような忍び笑い。
「いや、つまらぬことでお引き留めだてをした。では、ごきげんよう、上田くん」

むどおん!

 「(野太い声の男性コーラスをバックに)時に西暦2019年、世界の人口70億。発展途上国との命の格差はそのままに、一部先進諸国では少子化が急速に進行。文化的最低限の生活が保障する“一人一成人女性”の担保が難しい状況に、成人男性の性的嗜好は急速に低年齢化。これを受けて各国政府は未成年女子の人権へ、歴史上かつてなかったほどの保護を政策として立法化。結果、成人男性にとって通常の社会生活を営むことが困難なほど、未成年女子の存在が凶器化。曰く、電車内で女性の背後で勃っただけで痴漢冤罪。曰く、街角で視線が交錯すれば視姦冤罪。曰く、百貨店で迷子の女児に声かけしただけで未成年略取。曰く、カメラ屋で娘の写真を焼き増ししただけで猥褻物頒布罪。法の厳格な執行に伴って、みるみる減少する労働人口に頭を悩ませた先進諸国政府は、南極へ人為的なブレーン世界構築の計画を策定。続いて、そこへ未成年女子全員を保護名目で隔離する国際法を国連にて採択。かくして、18歳以下の女子は先進諸国の家々から、路上から、街角から、一切に姿を消したのである」


 紫と黒のグラデーション的空間に、学校とおぼしき建築物が斜め45度に傾いて浮遊している。校門には“県立柘榴(ざくろ)高校”とある。カメラは校庭から下足室をくぐり、奇妙に人気を感じさせない教室の前を通り抜け、階段伝いに上へ上へと移動してゆく。最奥の突き当たりに屋上はなく、なぜか教室が存在する。扉の上に掲げられたプレートには“無道怨仇部(むどうおんきゅうぶ)”と揮毫されている。荒々しく駆け上ってきた人影がカメラを追い越す。“筋肉質の男性が長髪のカツラとセーラー服を身にまとっている”としか形容できない風貌だが、南極のブレーン世界は未成年女子をしか収容しないため、論理的には生物学的に女子と推測するしかない。その人物、駆け上ってきた勢いのまま、絶叫しつつ入り口の扉を蹴破る。
 「慄(りつ)! たいへんや! 御厨ヶ丘(みくりがおか)高校の連中が、いよいよ攻めてきよったで!」
 「(顔面に雑誌を乗せ、両脚を机へ投げ出していたブレザー型制服着用の贅肉質巨漢、突然ノーモーションからほとんど重力を無視して垂直に跳び上がり、恐るべき柔軟さで両脚を地面と平行に真横へ広げる)なんやとォ! えらいこっちゃ! ジャンピング・サンダークロス・スプリットアタック・ナウやがな!」
 「(金髪碧眼白皙の少女が優雅な仕草でカップを置きながら)あら、それはありえませんわ。なぜって、ブレーン世界はそれぞれ独立した存在で、相互干渉はできないようになっていますもの」
 「(着地の際に体重で床板を踏み抜きながら)無義(むぎ)、それはほんまか!」
 「(衣類の本来的な役目を否定するほど短い上着からのぞく六つ割れの腹部を抱えて爆笑しながら)だまされよった、だまされよった!」
 「(カチューシャの下に広い額というよりは、頭頂部に向けて後退した生え際からもうもうと煙を上げながら)妙(みお)、貴様ァ! そんなつまらんイタズラでワシのドリームタイムを邪魔しよったんかぁ!」
 「(前腕の筋肉を誇示しながら)揺れる脂肪がいつもマシュマロみたいなお前の成人病を心配して、ちょいと運動させてやったんやろうが! 感謝こそされ、キレられる筋合いはないわ!」
 「(胸倉をつかんで)もう勘弁ならん! 決闘じゃあ!」
 「(胸倉をつかみかえして)吐いたつば飲まんとけよ!」
 「(金髪碧眼白皙の少女、無言で立ち上がると部屋の奥からティーセットを盆にのせて戻ってくる)さて、分厚く切ったこのフランスパンに、『うそ!』と叫ぶくらいサワークリームをたっぷりと塗りつけて(瞬間、未来人の如く退化した細い顎がゴムを思わせる柔軟さで異様に広がり、パンにかぶりつく)……ムホホ、どっしりとしたフランスパンの塩気がサワークリームの酸味をしっかり受けとめて!」
 「(胸倉をつかみあったまま、筋肉質と脂肪質、同時に唾を飲む)ゴクリ」
 「(短い一本線の唇から血の滴る生肉のような舌をのぞかせて)そしてサワークリームの酸味が口の中にまだ残っているうちに、飽和状態まで砂糖を溶かしこんだ紅茶をひとすすり……ンまーい! 眼球上部から錐を差し込んで前頭葉を右へ左へグリグリするような、ロボトミーとまごうこの旨さ! よくぞ、ブレーン世界に生まれけり――!!」
 「(制服のリボンへ盛大に垂れ流れたよだれをぬぐいながら着席し)今日のところは無義にめんじて休戦ということにしといたるわ」
 「(カーディガンへ盛大な染みとなったよだれをぬぐいながら着席し)おまえこそ、脳味噌が糖分しか受容しない事実に感謝せえよ」
 「(フランスパンの体積の三倍はサワークリームを塗りつけてかぶりつく)うまいのう。正直、ぼっとんの汲み取り式だけは勘弁願いたいと思うとったが……ワシらの便からこれができとるなんて、にわかには信じられんわい」
 「(挑発的な視線をカメラへ送りながら親指に付着したクリームをなめとって)すべてのブレーン世界には、閉鎖環境における物質循環のモジュールが装備されていますのよ。いったん原子レベルにまで分解してから再構築してますから、衛生面でも安心ですわ」
 「(ビロウな連想を誘うとぐろ状にサワークリームを盛りあげ、ほとんど噛まずに飲み込みながら)ムォッ、ムォッ、グゥオフッ……なんとのう。糞尿を集めるだけで地球に優しいなんて、ワシらエコじゃのう」
 「(急激な食事に腹部が膨れ上がり、スカートのボタンがはじける)スカートのウエスト丈2cmゆるめたのに、まだ飛ぶのう」
 「(六つ割れの腹部を誇示しながら)ついにウェイトが限界超じゃのう、慄」
 「(ラマーズ法的な呼吸で懸命に腹をひっこめながら)ぬかせ、妙。南極は寒いからのう。こりゃ、冬脂肪じゃわい」
 「(優雅な仕草でカップを置きながら)このブレーン世界は外界の環境からは完全に隔絶されています。寒さを感じるとすれば、それは風邪の初期症状か、排尿直後か、さもなければ単なる気のせいですわ」
 「(猛烈な歯軋りで)ギギギ。ほんに、このアマときどきすごいむかつくのう」
 「(片手で制して)ほっとけ。囚人どうしの優越感じゃ。評論や批評が現実に影響を与えた試しはないわい。それを証拠に、幽異(ゆい)はもう帰ってこんのやから……(部屋の片隅に視線をやる。栗毛の少女が虚ろな視線で宙空を眺めながら座り込んでいる)」
 「(胸元に抱えた哺乳類らしき肉塊を撫でながら、感情のこもらぬ囁きで)うふふ、かわいいわね、あなた。ねえ、どこからきたの? おねえさんにおしえてよ」
 「(太い眉をハの字に曲げて)元は猫やったのか犬やったのか。すっかり毛も抜けてしもて、肉はくさいガスでふくれあがって、ひどい状態じゃ」
 「取り上げようとしても、ものすごい力で抵抗するしのう」
 「(肉塊の表皮が裂けて、ガスが噴出する)ブーッ」
 「(鼻をつまんで)おお。こりゃ、くさいのう」
 「(人差し指と中指を鼻の穴に突っ込んで)気がくるうて、死んどるのがわからんのじゃ。ほれ、幽異のあの幸せそうな笑顔を見てみい。くるった頭の中では、愛らしいペットを飼うとるつもりなんじゃ」
 「(細い眉をハの字に曲げて)むごいのう。女ばかりのブレーン世界にうまく適応できんかったんじゃ。あんな屍鬼(ghoul)みたいな肉塊に、壊れた心を補修させようとしとるんかのう」
 「ほんにのう。まさにぶわぶわテイム(tame)というわけじゃ」
 「……(無言のまま、すまし顔でカップを口に運ぶ)」
 「(突然、ホログラム状のウィンドウが宙空へ出現する.中性的な合成音声で)みなさん、相変わらず仲がよろしいですね」
 「(いっせいに直立し、三人で唱和する)ヤヴォール・ヘア・アーサー・シュバルツ!」
 「(中性的な合成音声で)貴方たちと相対するとき、思考の基礎言語には日本語が定義されています。複数のブレーン世界を統括する人工知能である私ですが、どうぞかしこまらず、ただ、こう呼んでください。黒田アーサー、と……!!」
 「(突如くだけて背もたれに身を投げ)そりゃ、ええわ。いくらブレーン世界が国際政治における国家間の調整結果とはいえ、敵性言語を強要されるのは気分のええもんではないからのう」
 「(突如くだけて、机上へ両足を投げ)そやそや。ウチはいつも答案真っ白で英語は追試やけど、そんなんわからんでも未来はどどめ色じゃ」
 「(後れ毛へ指をかけながら)ご指摘さしあげるのも失礼かと思いますが、念のため。先ほどのはドイツ語ですわ」
 「(両手の人差し指を涙腺の直下に当てて)ラわーん、あんちゃーん! 学校という一時的な場所での、さらに限定的な能力に関する相対評価を全人格的な絶対否定にすりかえて非難されたよー!」
 「(猛烈に歯ぎしりして)ギギギ。校舎裏が人類の生存を許さぬ真空の海でさえなければ、すぐにでもシゴウしたるんじゃがのう」
 「(ホログラムの背面へ回りこみながら)まあ、こわい。黒田先生、どうしていつまでも人は愚かで、こんなにも争いを避けることができないのでしょうか」
 「(中性的な合成音声で)感情が時間を経て集積したものが、歴史と呼ばれます。その感情の連なりが途絶えることが、共同体の滅亡です。多かれ少なかれ、共同体の存続という命題は、成育史のうちに個人の内面へ刷り込まれます。その過程を通じて、個人は己を超えたところにある共同体の歴史から事物に対する判断へバイアスを得ますから、客観的であったり、論理的であったりすることは極めて難しくなるのです。結果、その判断のすれ違いが争いへとつながってゆくのだと推測できます」
 「(瞳を潤ませ、うっとりと両手を組み合わせて)さすがですわ、黒田先生」
 「(わずかに男性的な合成音声で)いえ、賞賛はご無用に。私は人工知能、感情を持たない論理機械に過ぎませんから」
 「(鷹揚に頭の後ろへ手を組んで)なあなあ、そんなことより、ウチらはいつまでここにおらないかんのや。人生でいちばん輝け(Cagayake)る時期の女子を、陽も射さないブレーン世界で過ごさせるなんて、どういう政策なんじゃ、コレ」
 「(発言に勢いを得て)そやそや。男日照りの表現がまったくシャレになってへんわい。留年分をさっぴいても、卒業させてもろてええころあいとちがうんかい」
 「(中性的な合成音声で)現在、ブレーン世界の外側で発生している問題の根幹は、男性から欲求を向けられない年齢に達した女性たちの、男性が欲求を向けているものに対する嫉妬です。人間は動物ですから、子孫を残すという命題が至上のものとして行動原則へ抜きがたく組み込まれています。女性にとって、己よりも男性の欲求を多く向けられる存在というのは、遺伝子の保存を考えるとき、戦略上、極めて深刻な脅威です。これを退けなければ、己が輸送する情報の系は途絶するのですから。一方で男性は、己の遺伝子を受け渡す上で、例えば流産等による頓挫の可能性が少しでも低い個体を選択しようとします。一般的に、より若い女性の方が男性にとって魅力的に感じられるというのは、そう感じさせたほうが遺伝子伝達の戦略上でより多くのリスクを回避できるという、進化と名づけられた淘汰を経てなお残された動物的な要因に過ぎません。いったん子をなした場合でも、両者のこの特質に変化が見られないのは、さらに多くの遺伝子を残したほうが、単純な確率計算として情報の系が途絶する可能性が下がるからです。ちなみに人口維持に必要な出生率は2.07ですが、この0.07は性交可能となる以前に死亡する子供を計算に入れたものです。つまり、男性がより若くを求め、年齢を経て男性の欲求の対象となる機会が減った女性が、男性の欲求の向かう先を破壊しようとするのは、理の当然と言えましょう。二次元性愛への焚書的弾圧の根もここにあります。また、男性の欲求がときに若すぎる固体へ向かう場合、それが容認されるべきか否かの判断ですが、現状、各国政府はその国民へ一律の年齢基準を設けることで異常と正常の境界を明示しています。しかし、これは個体差を無視しているという点で、生物学的に妥当とは言えません。遺伝子継承に焦点を当てれば、答えはあまりに明白でしょう。すなわち、初潮を迎えているか否かです。初潮を迎えていれば、それは体内に出産へのレディネスが存在するということですから、これを制約するに及びません。もし初潮を迎えていない固体に欲求を向ける男性がいるとするならば、それは単なる後天的・文化的異常ですから直ちに排除されるべきでしょう。おわかりいただけましたか?」
 「(小声で小突いて)おい、慄。いま、英語でしゃべっとったよな?」
 「(小声でたしなめて)あほ、さっき無義がドイツ語やゆうとったやろ」
 「(切ない吐息を漏らして)先生の講義なら、私、何時間でも聞いていられそうですわ」
 「(中性的な合成音声で)米国のとある新聞の風刺漫画に、こんな内容がありました。一面の銀世界を前にした黒人の少年が独白するのです。『なんて美しい朝だろう。でも、この雪すべてが黒かったとしたら、ぼくはこの景色を同じように美しいと思えるだろうか』、と。これは真理の一端を突いていて、黒や黄から人間が連想する中身には、死斑であるとか黄疸であるとか、死を連想させるネガティブな内容が多いということです。(わずかに男性的な合成音声で)ですから、東洋の男性たちが貴女のような白人の少女を求めるのは、歴史的な劣等感をおくとしてさえ、理の当然なのです」
 「(バラ色に頬を染めて)まあ、どうしましょう」
 「(片手で顔をあおいで)平面に欲情できるヤツはええのう。うちら置き去りやないか」
 「(額の油脂をタオルで拭いながら)ほんま、あほらしわ。うちら当て馬ちゃうねんど」
 「(小指を深々と鼻腔に挿入しながら)こういう日はもう、一杯ひっかけて寝ちまうに限るわ」
 「(裏声で連呼して)寝ちまおう寝ちまおう寝ちまおう! そうと決まれば、早寝の前にホトケ様にのんのんのんじゃ!」
 「(いぶかしげに)ホトケ様なんてどこにおるんじゃ」
 「(親指で部屋の隅を指して)おるじゃろ、あそこに」
 「(感情のこもらぬ囁きで)うふふ、なにかがやけ(Cagayake)るにおいがするわね? どんなおいたか、おねえさんにおしえてごらん」
 「(隆々たる筋肉で腕組みして)おまえはときどき、すごい冴えるのう。感心するわ」
 「(うっとりと)黒田先生……」
 「(中性的な合成音声で)後近代の人類が抱く不幸を象徴的に言うならば、それは『録画したビデオテープの累積時間が、人生の残り時間を上回っている』ということになるでしょう。もしかすると人類はすでに滅びていて、私はただモニターの上に貴方たちの影法師を見ているだけなのかもしれません。例えば、私が貴方の問いかけに応答することを止める。なのに、貴方はまるで私が返事を与えたかのように会話を続ける。人工知能である私が恐怖するのは、そんな恐怖なんですよ」
 「(うっとりと)もっと聞かせてください、黒田先生。もっと……」
 「(中性的な合成音声で)あるいは後近代の不幸とは、消費者金融やパチンコ屋や新興宗教の布教活動に占拠されたかつての巨大メディアを見るときの眼差しに含まれると言えるかもしれません。あるいは、東洋人が西洋人へ潜在的に抱く劣等感を巧みに利用し、髪の毛を軟便色に褪色させる毒液の販売と、劣化した髪質の恒常的なケアという市場を創出した誰かの狡猾さに含まれるのかもしれません。あるいは、『手をかざしてください』と書いてあるのにいくら手をかざしても大便が流れないときの、アナログ的レバーへの郷愁と共に湧き上がる不必要な市場創出への絶望感に含まれるとも……」
 「(秀麗な眉を寄せて、悩ましげに)あの、ひとつよろしいでしょうか」
 「(わずかに男性的な合成音声で)なんですか、無義さん」
 「(小刻みに肩を震わせて)最近わたし、ときどき、黒田先生が人工知能だとはとても思えなくって……だって、まるで……まるで……」
 「(中性的な合成音声で)疲れてるんですよ。ノイローゼの前兆かもしれませんね。(わずかに男性的な合成音声で)睡眠導入剤を処方してあげますから、今日はそれを飲んでゆっくりおやすみなさい……」
 「(筋肉質と脂肪質、部屋の隅に向けて合掌し、野太い声で唱和して)まんまんちゃん、のーん!」
 「(感情のこもらぬ囁きで)あ、あ、そんなところをあまがみするなんて、いけないこ、いけないこね……」

ホーリー遊児(3)

 ソファとテーブルのみの簡素なスタジオセットの中央で、一人の婦女が腰掛けている。白目に蝿がとまるが、某有名拳闘漫画の最終回を想起させる前傾姿勢で微動だにしない。突如、頓狂な音楽が流れだすと同時に、婦女、バネじかけの如く跳ね起きる。その顔面は余すところなく靴墨のようなもので着色されている。
 「ハァイ、全国津々浦々、老若男女のみなさーん! 小鳥尻ゲイカがテンションあげあげのスーパーハイテンションでお送りする『nWoの部屋』の時間がやってきましたよ! (興奮の極みのロンパリで)ってゆーか、アタシがこんな有名番組の司会に抜擢されるだなんて、リアルに超ウケルんですケド! コーデリア、見てる? ついに帰ってきたの! アタシ、全国のお茶の間にまた、帰ってきたのよ! ……え、何? 全国放送じゃないの? ははあ、ネットで有料動画配信。(前髪に手櫛を入れながら、とたんに低い声で)話がうますぎると思ったわ。やっぱり裏があったのね(露骨に舌打ちする)」
 画面の外でプロデューサーらしき男が両手を身体の前で振り振り口パクで『だましてないだましてない』と言う。
 「(両腕をソファの背に乗せてのけぞって)あー、いっきにやる気うせたわー」
 画面の外でプロデューサーらしき男が合掌して口パクで『かんべんかんべん』と言う。
 「わかってるわよ。いまのアタシに仕事えらぶ権利なんか無いってんでしょ。(立膝になると片手のメモを隠そうともせず)えー、記念すべきネット配信第一回のゲストわぁ、(棒読みで)なななーんーとぉ、ホーリー遊児さんにお越しいただいておりまぁす。あの有名な(全くそれを知らない者のイントネーションで)『トラ食え』シリーズのシナリオライターに、最新作『トラ食え9』発売直後のホンネを直撃したいと思いまぁす」
 「(カメラがスライドすると、サングラスの男が映される。足を組んで鷹揚に座っており、その秀でた額はスポットライトを激しく照り返している)ふん、宵待薫子で一時代を築いたあのnWoの部屋がいまやこんな安普請で(土足で軽くテーブルを蹴る)、場末のネット配信にまで堕ちてるとはね。(画面外のスタッフへ)宵待チャン、いまどうしてんの? あ、死んだの。それはご愁傷様。(値踏みするように小鳥尻を眺め)だから、どこの馬の骨ともわからない芸人が司会してんのか。不況の影響かあ? どれもこれも安く上がってんな!(馬鹿笑いする)」
 「……ンだと、この野郎!」
 袖をまくり立ち上がりかけるが、プロデューサーらしき男が両手を身体の前でクロスさせながら口パクで『がまんがまん。また干されたいの』と言う。
 「(硬直した笑顔で)ドウゾヨロシクオネガイシマス」
 「(口の端を歪めて)フン。もはや僕が出演するのにふさわしい番組の格とはとうてい言えないが、金科玉条のインタビューに雑誌を買う能動性すらない連中にも等分に僕の言葉を届けてやる義務がある。例え、こんな場末のネット配信番組で羞恥プレイに近い待遇を受けてもだよ。それが、(充分に計算された角度と速度で首を振る。前髪がはねあがり、きわどい部分をお茶の間に公開する寸前、前髪は元の位置に戻る)過去に類を見ない国民的人気作品を世に送り出してしまった、罪深い僕の才能に対する贖罪というものだからね……(右手で口元を押さえ、左手で身体を抱くポーズを作り、流し目をカメラへ送る)」
 「(無視して)それでは早速、質問に参りたいと思います。(カンペに目をやりながら)今回のトラ食え9は前作から実に5年の歳月を経て、まさに満を持しての発売となりましたが、苦労なさった点や制作秘話などをお聞かせいただけますでしょうか」
 「(両手を打ち合わせて)ハハハ、上手上手。ちゃんとおしゃべりできるじゃないの」
 「(目線を外したまま硬い声で)どうも」
 「(ねっとりと嘗め回すように小鳥尻を見る)いいね、いいね。そういう強気なの、嫌いじゃないね。最近、草食系とやらが多すぎて、食傷気味だからさ。草くってテメエだけおつうじよくて、こっちの腹ァくだらせる連中がさ! いいですよ、制作秘話ね。実は前作から古巣を捨てて、制作会社が変わったんですね。仕事する相手もツーカーの同年代ばかりじゃなくて、若い子が圧倒的に増えてね。最近の若い子たちはね、とても頭がいいんですよ。昔なら信じられないけど、大学出てるくせにゲーム屋やってんだもん。どいつもこいつも、偏差値高いんだ。卒論とかで鍛えられてんのかな、文章も達者で、なんでも言葉で説明できちゃう。で、説明できるもんだから、やったこともないのに本質をわかった気になっちゃうんだな。体験が欠落してしまうの。でも、いまや受け手の大半も体験が乏しい世代だから、それに気づかないんだよね。だから、表面はすごく洗練されて見えるんだけど、軽いの。情念が伝わってこない。僕はそういうの、ヤなんだよ(笑)。古いって言われてもさ、受けつけないの。書き手のナマの経験値がさ、何を題材にしたって、隠しても隠しても行間から否応に染み出してくるような文章じゃなきゃ、トラ食えのシナリオを記述するのにふさわしいとは言えないのよ。ぬぐってもぬぐっても、染み出る先走りね(舌で唇を執拗に湿しながら、こぶしの人差し指と中指の間へ親指を出し入れする)。わかる?」
 「(あくびとも嘆息ともつかぬ様子で)はあ」
 「(サングラスの位置を直しながら)なんとも淡白な反応だね。デレないツンデレってわけだ。まあ、いいや。だから、僕は若手社員たちの教育から始めなくちゃならなかったわけですよ。みんなスケジューリングもうまくて、仕事も速くて、それでいて一定のレベルを超えるものを作ってくる。でも、僕は不満だったのね(笑)。ふつうのゲームならそれでいいんだろうけど、これはトラ食えではないって思ってたの。(興が乗るにつれてやさぐれた感じを増して)ヤニも吸わずに青白い顔でカタカタってキーボード打ってさ、ほとんど残業も無しに定時退社するわけよ。んで、飲みに誘っても、全然のってこないわけ。『それって給料分ですか?』って言われてアッタマきてさ。モノをつくるドロドロが、会社っていうシステムでおきれいに下水処理されてんだよ。だから、制作開始から一ヶ月くらいしてからかな、全員退社した後にハードディスクをひとつ残らず五階の窓から放り投げて、プリントアウトしたシナリオもびりびりに破いてやった」
 「(あくびを隠すように両手を口元へ当てて)まあ」
 「(得意げに)次の日、床に散乱したシナリオの残骸にあぐらをかいて、定時出社の連中をお出迎えしたのよ。どいつもあんぐり口を開けてさ、いっそ怒鳴りあいになれと思ってたね。なのに、『どうするんですか、これ』とかぼそぼそ声の抗議だけで片付けを始めやがったからよ、アッタマきて手近の青ビョウタンをネクタイごと胸倉つかんで、したたかブン殴ってやった。そしたら、女みてえに(口マネで)『なにひゅるんでひゅかぁ~』だってよ! 大切なものを土足で踏みにじられてんのに、テメエの存在ごと作ってねえから、本気で怒ることさえできねえのよ。俺はキレたね。机の上に仁王立ちして、啖呵よ。『テメエらは天下のトラ食えの制作に参加してんだぞ! なんでもっとそれを利用しねえんだよ! クオリティアップのためだったら、どんなに時間をかけたって社長からも文句を言われねえ、誰にも文句を言わせねえ、国民の一割が購入することがあらかじめ決まってんだからな! 大学出てるくせに公務員じゃねえ、わざわざゲーム屋を選んだんだ! それなりの我ってもんがあるんじゃねえのかよ! 納期を守るとか、そんなつまらん社会性はぜんぶ放り投げて、ただ創造だけを我利我利に追及しろよ! トラ食えの制作現場にいんだぞ、おまえら! もっと誇りを持てよ! もっと貪欲になれよ!』」
 「(あくびに目を潤ませ、眠気に頬を紅潮させて)かっこいい」
 「(勘違いに小鼻を膨らませて)それからよ、『おまえら、これからトラ食えが何なのかを教えてやる』って言って、問答無用で全員引き連れて、むりやり午前中から店ェ開けさせて、朝までキャバクラ三昧よ。まあ、上司の飲みすら断る青びょうたんたちをキャバクラに引きずり込むための、計算ずくの大芝居だったわけだ。んで、その日から四年間ずっと全員でキャバクラ。制作期間を一日二十四時間で計算し直したとしても、半分以上はキャバクラにいたな。もちろん、制作費も九割がたキャバクラに消えたよ。おかげでヤツら青びょうたんどもの人格もいい具合に陶冶されたね。まあ、少々やりすぎたせいで、金髪の顔面ピアスにアロハ姿で重役出勤、キャバ嬢にケータイかけながらダラダラ片手で仕事しやがるもんだから、制作の終盤にはシュラフ持ち込んで会社に泊まり込みよ。開発室は煙草の煙でモウモウしててさ、いよいよの追い込みにはビタミン注射の回し打ち。品行ホーセーだったあの若手どもがよ、修羅場に目を輝かせて、どんどんいいアイデアを出してきやがる。(舌足らずの声の演技で)『ホーリーさん、閃いたッス! セーブデータを1つにすれば、今までの三倍売れるんじゃないッスか?』(胸元で右手を握り締めて)『ビッグアイデア!』。嬉しくって涙が出るってのはこのことさ。そんなよ、社会的には落第しちまった連中がよ、本当にキレーな話を書いてくんだよ。行間からにじむ情念がさ、下手な演歌よりも泣かせんだ(手のひらで鼻をすする)。まあ、少々その他の部分で妥協することにはなったがね(カメラから目線を外す)。今回のトラ食えで、うちの会社は組織としてひとつの大きな山を越えたと感じたね。レベルアップさ(例の効果音を口ずさむ)」
 「(カンペを横目で見ながら)しかし、疑問は尽きません。なぜ他の何かではなく、キャバクラだったのでしょうか」
 「(足を組み直しながら)いーい質問だ。トラ食え9くらいの、文字通り日本の全家庭に一本が行き渡る規模の国家プロジェクトになると、ただ良作であるということを超えて、どうしても時代時代に即した、大衆を啓蒙する要素を盛り込む必要が出てくる。我々は常に、我々の巨大な影響力に自覚的なんだよ」
 「そこで、キャバクラですか」
 「(莞爾と微笑んで)おうよ。トラ食えの登場人物に対するお定まりの批判のひとつに、『女性は、処女か母親しかいない』ってのがあるが、今回はそれを逆手にとらせてもらった」
 「それが、キャバクラですか」
 「(ひどくいい笑顔で)おうさ。ハレとケってヤツよ。キャバクラは絶望的なケの中にあってハレを永続化させようっていう近代の試みなんだよ。民俗学的に見ても、ムラ組織が解体された結果として日本人が失った祝祭機能を代行する場所って言えるわけよ、キャバクラは。いろんな娯楽がある現代にさ、わざわざゲームっていう一頭地劣ったところに群がる連中はさ、どいつもこいつも妙にご清潔なわけ。倫理的によく躾けられていることを見せることで、ママか誰かが褒めてくれるって信じてるみたいにさ。(吐き捨てるように)誰も褒めちゃくれねえのによ! 品行ホーセーが現世での成功に直結するってなら、今頃ニートどもは大金持ちだよ! いままでトラ食えが連中の心をつかんできたのもさ、女性的なるものとして処女と母親だけを記述してきたから、当たり前の帰結って言えるわけ。でも、もうそんなのはヤになったんだよ(笑)。神職とか河原芸人とか、倫理ってのは相対的だからさ、ケガレを代行する装置が相対化を担ってきて、そこへケガレを押し付けることで相対的に清潔でいられるってことを連中は知るべきだと思ったわけ。だから今回、キャバクラで剃毛、おっと、啓蒙なわけよ。しなびたフルーツ盛やら、水道水のミネラルウォーターやらでさんざんボッタくっておきながら、帰り際にポケットのアメ玉をキャバ嬢にやったら、発展途上国の子どもみたいなすげえキレーな笑顔で『ありがとー』って、本当にうれしそうに言いやがるわけ。もう、そういうのにグッときちゃうのよ。俺くらいの重鎮になると、枕営業なんか受けることもあんだけどさ(意味ありげに小鳥尻を見る)、確かに顔立ちも整っててイイ身体してるよ。けどさ、情事の後で後ろ手に髪を束ねてるときなんかにのぞく打算的な横顔に、もう心底からどっと疲れちまうのよ。後ろ指さされないためだけの品行ホーセーで、そのくせ隣人のゴシップには目を輝かせて、娘息子から刃物刺される連中なんかよりも、パンツに大便のスジつけて、髪の毛バサバサで、ゴキブリみたいな質感の顔面で、ホントきったねえんだけど、俺に言わせるとキャバ嬢の方がもう何倍も、一億倍もキレーなわけ。もう、たまんないのよ。(突然、カメラに指を突きつける)おまえら日本男子は全員、いますぐキャバクラ行け! キャバクラ行け、キャバクラ行け、キャバクラに(天をあおいでお茶の間にきわどい部分を公開しながら絶叫する)行けぇーーーッッ!!! 日本男子なら将軍様に仕える心意気ってのが、わかるだろ? 『いざ、キャバクラ!』、なんつって!(ソファに身を投げ出して、馬鹿笑いする)」
 「(あきれ顔で)ホーリーさん、ホーリーさん」
 「(ずり落ちたサングラスを直して)ああ、これは失礼。少し興奮してしまったようだ」
 「(冷静に)キャバクラはもう充分お聞きしました。(カンペを見ながら)今回、若手のスタッフが制作の大部分に携わったようですが、それをとりまとめるホーリーさんのお仕事はどのようなものだったのでしょうか」
 「(衣服を整えると、気まずげに咳払いして)そうですね。シナリオプロットの作成と、制作進行および品質管理ですね。プロットを書いたメモ用紙をできるだけ小さくし、簡潔にまとめるのにとくべつ腐心しました。ようやく想像の翼を広げる楽しみを知った若い才能たちに、できるだけ自由にやらせてみたかったんですよ(笑)」
 「そのメモには、どんな指示が書かれていたんでしょうか」
 「プレイ前の方へのネタバレは避けなくてはいけないという前提の元ですが、いくつか例を挙げましょう。『魚類と父親。父親は死ぬ』『新妻と伝染病。新妻は死ぬ』『令嬢と人形。令嬢は死ぬ』『学院と院長。院長は死ぬ』『姫と騎士。両方死ぬ』……ざっとこんな感じですね」
 「(目を大きく開いて)死にまくりですね」
 「(深くうなづいて)テロルによる大量殺戮の時代に、死の個別性と恣意性を強調したかったんです。時代に敏感であることも、トラ食えが愛される大きな理由のひとつですからね」
 「(真剣な表情で)キャバクラですね」
 「(神妙にうなづいて)ええ、キャバクラです。そして、最終工程のブラッシュアップでは、視認性を高めるのに骨を折りました。ひとつの文章がひとつのウィンドウに収まるように調整する作業ですね」
 「具体的にはどのような作業だったのでしょう」
 「半角を全角にしたり、全角を半角にしたりする作業です。これがまた神経を使いましてね! あまりの精神的な重労働に、頭がハゲあがるかと思いましたよ(笑)」
 「えっ」
 「いやだなぁ、もちろん言葉のアヤですよ」
 「えっ」
 「えっ」
 突然、画面の解像度が粗くなる。カメラが手前へ引いてゆくとスタジオの光景は遠ざかり、薄暗い部屋のモニターが映し出される。画面の前には一人の男が座っており、その手には携帯ゲーム機が握られている。
 「クソッ、わからない! なんでG.Wなんだ! 何の変哲も無い、ふつうのゲームじゃないか! なんでG.Wなんだよ! もしかして、まだボクには見えていない何かがあるのか? クソッ、ホーリー遊児め、どこまでボクに関心を持たれれば気がすむんだ! 読みといてやる、読みといてやるぞ……!!」
 インターホンの音が幾度も鳴っているが、男、携帯ゲーム機から顔を上げようとはしない。
 カメラは薄暗い部屋から薄暗い廊下を引いてゆき、玄関を通過し、やがて鉄扉の外側を映し出す。新聞受けからはみ出した広告が通路に散乱している。せむしの男、インターホンから指を離し、途方に暮れたといった様子でため息をつく。
 「トラ食え9が発売されてからと言うもの、ずっとこもりきりでヤンス。周陽も引き継いだ携帯ゲーム機のプロジェクトを投げ出したまま、辞表を提出しちまったでヤンス。枯痔馬監督、はやく戻ってきてくれでヤンス……」

少女保護特区(9)

 私のために殺すとき、心は痛まない。誰かのために殺すとき、心は痛む。
 黒く巨大な影がゆっくりと顔をあげた。誰かの――もしかすると自分の――悲鳴を聞いたように思ったからだ。それは、震える音叉の右と左が否応に伝えるような、剥き出しの、痛覚さえ伴う共鳴だった。
 近づいている。私の魂と同じ色をした魂が近づいている。あれは、私が喪失してしまった片翼だろうか。
 いや――
 あの色合いは似非だ。あれは煤の集積した黒に過ぎぬ。拭えばたちまち黄疸のような、濁った地金を晒すに違いない。一人や二人多く殺したところで何も変わらぬ。家族の血でさえ、私にとって特別ではなかったのだから。
 そこまで考えて、心臓と胃壁を細く刺し貫くような違和感に気づく。久しぶりの感覚だった。仁科望美はその正体を知っている。それは、孤独である。悲しみも痛みも超越し、恐怖を己がうつし身とした。しかし、最後に残るのは、やはり孤独なのか。
 孤独は心を惑わせる。どんな強靭な精神も孤独に迷う。だが、孤独が他者へと向かう感情ならば、己よりも劣った相手へは生じぬはずだ。人間すべてを殺害できるのならば、行き先を失った孤独は、きっと霧消するに違いない。
 最初の少女が殺し続けることに何か理由があるとするならば、まさにこの歪な哲学こそがそれであっただろう。
 近づいている、近づいている。
 知恵と本能が渾然となった仁科望美の意識は、愉悦をもって目蓋の無い瞳をぐるりと回転させた。
 あれを殺害せよ、必ず殺害せよ。あれが私よりも劣っていることを証明しながら、入念に殺害するのだ。


 ものを作ることはものを壊すことと同じである。無限のような繰り返しのうち、最初に生じた意味を消滅させることで、それは完成する。ものを作ることの終着にあるのは、完全な無化だ。
 ――これ以上は無理です!
 叫び声が、予を思索から現実へと引き戻した。
 ローター音の下で、操縦士の声はほとんど悲鳴である。無理からぬことか。ランキング二位の少女殺人者を一位の元へ同道する仕事なのだ。孕みきれず結露した死が眼前へ滴り落ち、複数の死を一時に求めえぬ人の身は、汚辱を伴った残虐さが支払いの代わりになることを否応に予期するのだろう。
 ――もう少し近づいてください。姿の見えるところまで。
 精気の無い声。振り返れば、予の少女が日本刀を膝へ横抱きにして座っていた。視線はまっすぐ前を見つめているが、その実どこにも焦点がない。
 しかし、操縦士に湧き上がった感情は、予とは異なるものであったらしい。とたんに背筋を張り、操縦桿を握る指の関節は白くなった。
 ヘリは、次第に密度を濃くするようにさえ思える大気を裂いて、大和川上空を通過する。一年前の予は、少女殺人者とこれに乗る未来を予想していただろうか。青少年育成特区における観察対象、すなわち少女殺人者の動向を探るために導入された対少女哨戒機である。特区の成立に際して国から格安で払い下げられたが、メンテナンスにかかる費用は地方自治体の収入でまかなわれており、いまや相当度に老朽化していた。
 仁科望美を殺し、青少年育成特区を終わらせる。予と予の少女が得た結論には、一種の高揚感があった。だが、その感情的な側面は一人の少女にとっての最善を曇らせてはしまわなかったか。そして、予は本当にこれを望んでいるのか。
 成体までの被支配の歳月が、自立というよりは支配を求める人間の基本的な性向を決定する。最良の支配者、究極の王政が常に民主政を上回るように思えるのは、初源の不可避的な無力状態に起因している。人類がイデオロギーの呪縛より逃れるためには、まず何より幼年期の時間を消滅させる必要があるのだが、生物学的な事実がそれを妨げる。ゆえに、社会は個人に先行できない。個人の世界観は幼少期の感情生活によって致命的に影響され、それは成長して以後の価値判断を予め決定してしまうからである。卵と鶏の議論よりも明白な結論だ。この意味で予は運命論者にならざるを得ない。
 しかし、これは人の歴史が抱え続けてきた大前提を確認するに過ぎず、改めて指摘すべき内容とも思われぬ。近代の抱える新しい問題とは、かつてなら養育する者とされる者の間へ侵入して運命をゆらがせた外的な要因が薄まり拡散してしまったことにある。幸福は家族に矮小化され、不幸は世界へと巨大化する。
 家族へ背をむけ、世界を破壊する。仁科望美の殺害は象徴なのだ。これは、時代に向けてする予の復讐である。
 たどりついた結論を打ち消すために、予はかぶりを振って窓の外を眺める。眼下の大和川に、以前仮居していた橋桁が見えた。河原では、やはり何者かが炊事の煙を上げている。あれは自分か、自分はあれか。視界が倍率を上げるような没入の感じがあり、続いて自己が二重になる錯覚が生じた。茫洋とした、特徴に乏しい人影が立ち上がり、こちらへ手をかざす。この距離で視線が交錯するはずはない。しかし一瞬、痛ましい輝きを宿す瞳を覗き込んだ気がした。
 現実を直接手触りするときのざらついた感じに嫌悪感を覚え、予はそれを避けるように予の子飼いを眼前へと掲げた。思えばビデオカメラとは、意識の不滅へ捧げる信仰に近い。対象が消滅した後も、己の意識は存続しているという確信がなければ、撮影を行う意味がない。現在という熱を過去へ冷却し、対象の実際を越えることを願う。すなわち、撮ることの本質とは対象の消滅を祈願することである。
 予はそれの消滅を強く願いながら、録画ボタンを押す。RECの赤い文字が点滅すると、炊事の煙だけを残して橋桁はすぐに無人となった。


 付近の山林より、それは出現する。予の認識は最初、縮尺が狂っているのだと判断した。前傾した姿勢で、すでに電線へ届くほどの大きさである。しかし、両手が膝頭の付近にまで垂れていることをのぞけば、滑らかな曲線で構成された肢体は、未成熟の少女そのものであった。最初にして最強の少女殺人者、青少年育成特区の生まれいづる処――仁科望美である。
 ヘリの接近に気づいたのか、ふいにこちらへと顔を向けた。柔らかな卵型の輪郭の内側で、目蓋と唇だけが無い。予にとってこれは二度目の邂逅になるが、前回は宵闇のうちであった。すべての魔術を解く真昼の陽光の下で、なお仁科望美の異様さは少しも減じるところがない。
 突然、操縦士が許可を得ぬまま、ヘリの高度を下げ始めた。真っ赤になった両目と青ざめた頬が絶望のコントラストを成す。もはや背後からの圧力よりも、眼前の怪物から来るほとんど有形の恐怖に屈したのである。予は予の不快を伝えようと操縦士へと向き直った。
 ――だいじょうぶです。もう、いけますから。
 だが、予の少女は静かに予を制止する。不快の正体は、操縦士の動物的な本能が予の少女よりも仁科望美の力を大きく見積もったところにある。予は不承不承うなづくと、足元の荷を接近する道路へと投げ下ろす。続いて、予と予の少女は、ホバリングに空中静止する哨戒機から共に飛び降りた。転倒する予を尻目に、予の少女は重さのない羽毛のように着地する。瞬間、足元が黒い影に覆われた。
 人の姿をした、人ではない何かが、上空より急速に予の視界へと迫る。目蓋の無い錆び色の瞳。甲殻類にも似た、生命からの共感を拒絶する濡れた質感。削げ落ちた唇は、赤黒い乱杭歯を隠さない。脳頂から差し込まれた恐怖が、すぐに諦念となって全身を呪縛する。狩られる者が狩る者に対して身を開くときの、あの麻痺だった。
 しかし、予の少女もまた、狩る者である。左手で荷をすくいあげながら、その勢いのまま予の腹へと右肩を差し入れ、跳躍する。巨大な少女は飛び立ちつつあった哨戒機を荒々しい陵辱のように両脚で挟み込むと、地面へと叩き伏せた。落下の衝撃と単純な質量へ耐えかねたフレームは、玩具のようにひしゃげる。
 一秒を引きのばす長い静止と、爆発。遅れてやってきた爆風が予の少女の陣幕をはためかせ、背後に吹き上がる炎は小柄なほっそりとしたシルエットを際立たせる。その表情はすでに、これから起こる殺害を疑わない少女殺人者の冷徹を湛えていた。予の少女は、何をすべきか迷わない。足元の荷を素早くほどくと、幾振りかの日本刀を取り出す。予の政治力が日本刀町に現存する業物のうちから最良の七本を蒐集したのだ。これらは、仁科望美を殺害するために準備された凶器である。
 予の少女は鞘を払うと、七本の刀を順に道路へと突き立ててゆく。少しも力を込めていないようなのに、抜き身はまるで熱したナイフのバタを裂くが如く、やすやすとアスファルトへ突き刺さる。やがて、予の少女の背を取り巻くように、刃の青白い半円が形成された。
 黒煙の中から現れた最強の少女が、天を仰いで咆哮する。火傷ひとつ無い。炎では、その肉を焼くのに冷たすぎたのだ。赤子の泣き声を逆回転でスロー再生したような、重く低い叫びが大気を震わせる。叫び声は音波となり、音波は物理的な衝撃波と転じて、左右に立ち並ぶ民家の窓ガラスを粉砕しながらこちらへと迫る。
 しかし、抜き身を片手にした予の少女は微動だにせぬ。まさか受け止めるつもりか。いや、背後に予が控えているせいで、回避できないのだ。正眼へ構えた日本刀が、衝撃波を左右に分かつ。予と予の少女が立脚するのは、さながら氾濫した激流の最中に残る中州だ。
 澄んだ音を立てて鋼鉄の刃が折れると同時に、激流は途絶える。四足に身を屈めた仁科望美が、長い前腕を地面に叩きつけて移動を開始したのだ。その速度は、見かけからは想像できぬほどに速い。
 予の少女が予を見、予はこめられた意図を感じとる。この戦いに、予は足手まといだ。だが、南北の街路へ東西に壁の如く差し渡す巨大な少女を前に、避ける場所などあるはずがない。予の思考は停止する。しかし、予の少女は判断を迷わなかった。新たな抜き身を口にくわえ、さらなる二本を左右へつかむと、東の民家へと駆け出す。目蓋の無い眼球が予の少女を追う。それは、フェイクだった。
 次瞬、ブロック塀を蹴って間逆へと跳躍した予の少女は、仁科望美に生じた死角へと身を投じた。二本の刀を交叉させると、右の手のひらをアスファルトへ縫いつける。突然に支点を得て、おそろしく巨大な臀部が回転しながら滑り、いくつかの家屋をなぎ払うように粉砕する。
 そこへ砂煙を裂いて、茶色に塗装された消防車が猛然と飛び出してくる。瞬間、予の身体は浮き上がった。軽い衝撃を感じた後、予はランブラーの屋根に横たわる己を発見したのである。傍らでは、死体処理用の手鉤をかつぎ、やくざに紫煙をくゆらすツナギ姿の妙齢女性が予を見下ろしている。
 ――やあ、アンタだったのかい。死体を釣り上げたかと思ったよ、あたしゃ。
 予が予の少女の観察員となって間もない頃、予の少女によって行われたいくつかの少女殺人に立ち会った清掃局の職員である。一年以上を経てなお、予を予と認識できたのは、よほど予の発する何かが特別であるのに違いない。
 ――まさか、二人とも生きてるとは思わなかった。まったく、あれから何人殺したのやら。
 家屋の残骸から、巨大な少女が立ち上がりつつある。左手から滴った血が下水へと流れこんでゆくのが見えた。殺せる。この生き物は、人類が殺せるのだ。
 仁科望美がうろうろと周囲を見回す。敵を見失ったのだろう。その背後に、抜き身を片手に電柱の上へ直立する予の少女がいる。半円を描くようにゆっくりと刀を正眼へと戻す。終わりだ。
 ――けどね、今回ばかりは相手が悪すぎるよ。
 吸い口を噛み潰しながら、清掃局員は厳しく目を細める。何を言っているのだ。いま、勝利は正に達成されつつあるではないか。
 音もなく宙に身を躍らせる予の少女。呼応するように、仁科望美が振り返った。唇の無い口腔が歪む。笑っている。知っていたのか。回避行動の取れない空中へ、狡猾な演技で標的を誘い出したのだ。
 頬が膨らみ、右腕が鞭のようにしなる。群がる蝿に牛の尻尾がするような、無造作な一撃。しかしそれは、蝿にとって致命的である。
 予の少女はたちまちアスファルトへと激突し、大きく跳ねた。そして、動かなくなる。予は、接触の瞬間に予の少女が身を屈めるのを見た。衝撃は吸収されたはずである。ただ、信じるのだ。殺戮の日々が積み上げた予の少女の強さを信じるのだ。
 ――あー、こりゃ死んだかもね。
 霊柩車にもたれかかりながら紫煙をくゆらせていた清掃局員は、煙を吐き出すのと同じような無感動でつぶやく。言葉に状況を確定させまいと息を潜めていた予にとって、その発言の無神経さは容認しがたかった。予は清掃局員をにらみつける。こめかみに白い切片を貼り付けた妙齢の女性は軽く首をかしげ、目を細めた。
 ――出歯亀ぐらいに観察員なんて名前をつけて、全く連中どもはいけすかないが、その目を見る限り、もしかするとあんたは少し違うのかもしれないね。増岡ってんだ。紀の川水系を担当してる。あと数分ばかりのつきあいだろうが、よろしく頼むよ。
 皺がれた片手が差し出された。予は無言のままとりあわず、予の少女へ向けて再びビデオカメラを構える。予の少女は地面に倒れ伏したまま、微動だにしない。
 ――嫌われたね、こりゃ。まあ、お互いにするべき仕事をするだけさ。
 増岡は、わざとらしくため息をつく。その間にも、仁科望美は腰を屈めるようにして、予の少女へと近づいてゆく。偽死を警戒しているのか。小柄な両肩はもはや上下しておらず、折れた刀をつかんだ右手は力なく垂れている。ノイズのような眩暈。撮影することは、対象の消滅を願うことである。ならばいったい、この行為が何を引き起こすことを望んでいるのだろう。
 ゆっくりと振り上げられた右足の影は、予の少女をすっぽり覆ってしまうほどに巨大だった。それが小さな身体を圧し潰さんとする正にその瞬間、予の少女は劇的に横回転して危地を脱する。そして、アスファルトを鞘にした抜刀術で、抜きざま右足へと斬りつける。しかし、狙いが充分ではなかった。分厚い爪に阻まれ、わずかばかり肉へ切り込んだところで刃はふたつに折れる。
 予の少女は新たに刀を引き抜くと、大きく後ろへと跳びすさった。仁科望美に訪れた変化が、次なる攻撃を躊躇わせたのだ。
 ――二度も傷つけられた。あの化け物の自己愛にゃ、充分すぎる打撃だろうね。
 つぶやいた増岡の横顔には、軽口の様子からは遠い深刻さが浮かんでいる。
 ――あの身体に肺呼吸じゃ、実際、動くのもままならんわね。ここからがアンタたちにとっての本番ってわけさ。
 それは、極めて生理的嫌悪に満ちた変化だった。肩口から背中の上面が波打ち、隆起する。少女が、少女の持つ柔らかさと滑らかさをそのままに、正体不明の皮膚病に侵されていくのを早回しにするような眺めである。
 ――さしずめ、エンジンを積み替えてるってところか。
 やがて仁科望美の上半身へフジツボ状の突起がびっしりと並んだ。外観とは似合わぬ柔軟さで、それらは収縮を繰り返している。肥大した上半身は細身の下半身と異様なバランスを成し、突起に押される形で首は地面と水平に曲がっている。これが、殺し続けてた者の本性なのか。それはもはや、人の戯画へと堕していた。
 かつて少女殺人者だったものの成れの果て――人類に仇為す巨獣である。
 その背中に、小型の竜巻のような気流が発生する。肩越しの景色が陽炎の如くゆらいだかと思うと、突起からゆらゆらと褐色の気体が立ち上り始める。清浄な吸気は、糜爛した呼気へ。緩と急、二つの動作をあわせて、それは呼吸しているのだ。予は息苦しさが増した気がして、思わず喉元へ手をやった。
 巨獣は突如、予の少女へと風を巻いて襲いかかる。小動物の敏捷性を備えた鯨を思わせる、ほとんど物理法則を無視するような動きだ。長い前腕を鞭の如くしならせる一撃が発する轟音は、それがもはや音の壁を越える速度へと達したことを知らせる。触れれば、この世のあらゆる形象は崩壊するだろう。
 だが、単純に速度を比べあうならば、予の少女が遅れをとるはずはない。巨獣の攻撃は、次々と紙一重にかわされる。同時に、予の少女を包む陣幕は次第に切り裂かれてゆく。
 大きく蜻蛉を切って距離を取ると、予の少女は引き剥ぐように陣幕を脱ぎ去った。その下には、極めて精緻に肌へと密着した体操着がある。予の政治力が日本刀町以外の場所で特注させた逸品である。達人同士の戦いでは、いかに肌へ近い位置で攻撃を見切るかが決め手となる。繰り出される攻撃にこそ、最大の隙が存在するからだ。陣幕を脱ぎ去る暇もあればこそ、追いすがる巨獣の追撃は予の少女へと突き刺さった。しかし、それは残像である。予の少女はすでに前腕の内側にいた。巨獣の肩にある突起物のひとつが逆袈裟に切り裂かれ、赤黒い粘液が噴出した。仁科望美と同じく、予の少女もまたエンジンを積み替えたのである。
 ふたりの攻防は、影を追うのも困難な高速の戦いへと変貌した。巨獣の攻撃は、もはや予の少女をつかまえることができない。だが、攻撃が引き戻される隙をついた予の少女の反撃も皮一枚を裂くのがやっとである。傍目には激しい攻防にうつるが、その実は互いに決め手を欠いた、極めて静的な消耗戦なのだ。
 そして、永遠に続くと思われた均衡は、思いもかけぬところから崩れた。巨獣のひと振りに破砕された電柱が、瓦礫ごとランブラーへと飛来したのである。電柱は無人の運転席を貫いたのみだったが、予の少女はなぜか動揺を見せる。視線がこちらへと逸れる瞬間を、仁科望美は見逃さなかった。
 嘲笑、そして一撃。
 咄嗟の防御に差し入れた刀の峰はやすやすと破壊される。予の少女は地面と平行に長く滑空し、家屋の壁へ叩きつけられた。予の子飼いが倍率を上げると、予の少女の口の端から赤い泡が吹き、鼻から血が流れるのを写した。どこかで不滅を信じていた。信じる強さが足りなかったのか。まさか、死ぬ。世界の中心であったはずの、予の少女が死ぬ。
 ――さあて、仕事の時間だ。
 増岡が手鉤をつかんだところへ、予は立ちはだかる。
 ――相手が違うんじゃないかね。
 苦笑しながら、その女性はまっすぐに予を見た。
 ――いいかい。いくら他人を殺したところで、一発殴り返されなきゃ、命が何かなんてわからないのさ。あんたの世界も、私の世界も、あの子たちの世界も、ぜんぶ自己愛から成り立っているからね。自分の命がどういう形をしてるかわからなけりゃ、他人なんざどこまでいってもただの書割りさ。一方的に殺してきたから、自分を生み出した長い営みの正体について、何ひとつ理解することができないでいる。どっちもね……ところでさ。
 鼻から細く煙を噴き出すと、吸いさしの煙草を人差し指で宙へはじいた。
 ――いつまでそこへ突っ立ってるつもりなんだい。いまならまだ、あの子の人生に関わることができるんじゃないのかい。
 関わる。ただ少女の語り部であることで、少女と世界を連絡させてきた一観察員が、少女の人生に関わる。突然に来たしたパラダイムの転換に、思わず掲げていたビデオカメラを下ろした。視界からノイズが消えると、鼻腔へ鉄錆のような血の匂いが混じった。
 ――この年になると、おせっかいが身上みたいになっちまう。まあ、いま動かなけりゃ、なんにもならないわね。
 殺害を確信した巨獣の吼え声が住宅街へこだまする。ビデオカメラが手のひらから滑り落ちる。レンズの割れる音が合図になって、駆け出した。あらゆる理性は頭から吹き飛び、ただ大の字に両手足を広げて、巨獣の前へ立ちはだかる。
 ――殺させないぞ、馬鹿野郎。やれるもんならやってみろ。
 歯の根が鳴り、涙が出る。
 家族や、社会や、歴史や、世界や、ぜんぶくそくらえだ。本当のことは、この手の届く範囲だけが大切で、他はみんな消えてしまって構わないということ。けど、なんでいまさらなんだ。
 曲がった首は相手の行動に対する不審を表明しているようにも見える。闘牛が地面を掻くのにも似た動作でアスファルトの感触を確かめると、巨獣は身を屈めた。まばたきひとつほどの時間だったに違いない。それは、爆発的な速度でぐんぐんと視界へ拡大した。
 皮肉なものだ。説き伏せるのに有効な言葉を持たず、殺すのに有効な暴力を持たず、長く体験し続けてきた世界との対峙の構図を、この状況は余すところなく体現している。
 がしゃん。
 粗なガラス細工が破裂する音が体の中から響き、視界がアクロバットのように回転する。家々の屋根と巨獣の背中が見えた。少女の姿はない。懐かしい感覚。そういえば、昔は落ちる夢ばかり見ていた。うつぶせとあおむけ、アスファルトへ二回、大きくバウンドする。
 私――の目の前に広がるのは広々とした青空だった。ひとつながりの熱が全身を包んでいる。指一本動かない。痛みは不思議と無かった。
 私は、内側にあった私より大きなものが、私と同じ大きさへ収縮してゆくのを感じた。二人の少女の顛末はどうなったろう。重力に身を預けて、ようよう首を転がす。
 敵を見失った巨獣の背面へ、蜻蛉を切る少女。その手にある刀は、最後の一振り。
 ああ――
 いまこそ、この世の真実に気づく。
 私は、私たちは、子どもたちに、隣人たちに、そして見知らぬ誰かに、この世界へ充満する死と死、破滅と破滅との間隙で、わずかの生を与えるために存在している。
 そして、時に愛されたその究極の人物は――
 神速の斬撃は音もなく巨獣の首を通過する。刀身が、澄んだ音を立てて割れた。音叉が共鳴するような静寂と、時が吸い込まれるような静止。
 ――人類を救済する仕事をするのだ。
 激しい血流が八方へ噴き、弾けるようにすべてが動きはじめる。巨獣の首は血の噴水に乗り、電線を超え、家々を超え、尾根を超え、入道雲を超えて上昇してゆく。
 その日、列島の各地から成層圏へと昇ってゆく生首が見られた。街頭で、市場で、公園で、学校で、会社で、病院で――ある者は泣いているように見えたと言い、ある者は笑っているように見えたと言った。ある者は両手を組みあわせ、ある者は眉を潜め、ある者は忌々しげに唾を吐き、ある者はただ好奇にカメラを向けた。
 最初の少女の葬送を偶然に目撃した人々へ共通するのは、誰も無関心のうちには見送らなかった、ということである。


 衛星軌道に乗った少女の生首が引く血の筋は、やがて土星の如く地球を環状に取り巻いた。夜空を見上げるとき、誰かが思い出すことを願ったのだろうか。
 名乗りでた唯一の係累は、米国航空宇宙局の支援を得た壮大な首実検を経て、それが確かに妹であることを確認した。頭髪に白いものの目立つ、柔和な面持ちをした初老の男性だった。
 このときの様子は感動の対面劇として、いささか過剰な演出を伴って生中継された。
 ――妹さんの変わり果てた姿を見て、いまどんなお気持ちでしょうか。
 レポーター群から成される質問は、いずれ良識のある者ならば背筋の凍るような内容ばかりだった。
 ――変わっていませんよ。
 しかし、その男性はどの問いかけにも、激さず、黙せず、ただ静かに答えた。
 ――あの頃のままです。内気で、繊細で、寂しがりやで、この世の誰よりも優しい。少しも変わっていません。
 愛おしげに、つい、といったふうで生首の映るモニターへ這わせた右手は、人差し指を欠いていた。
 この瞬間、いずれの局も大慌てで番組をCMへと切り替えた。それまで申し訳程度のモザイクで損壊した死体を放映しており、倫理規定の運用が極めて恣意的であることが露呈したのである。
 男性は遺骨の回収を願い出たが、却下された。単純に、これだけの大質量を持ち帰るだけの技術を人類が持たなかったからだ。
 そして、仁科望美は天から地上を見守る存在となった。
 私は人工衛星に乗せられた、あの犬の話を思い出す。文字通り、真空のような孤独。宇宙塵に粉々に粉砕されるか、暖かい星の抱擁にからめとられるまで、最初の少女はあらゆる生命から離れて、ずっと一人きりでいることを許される。愛する誰かを遠く見守りながら。
 私は想像する。たぶん、私自身の幸せのために。もしかすると、仁科望美は最後に願いを叶えることができたのかもしれない。


 さて、地に残された人々の話を少しばかりしなくてはなるまい。
 幸いなことに私の怪我は、全身の打撲といくつかの単純骨折で済んだ。少女は私よりもよほど軽症であったが、病院側が融通をきかせたらしい、いくつかの精密検査が退院を長引かせた。
 白い壁に囲まれた穏やかで、何も無い日々。ふたりでたくさん話をした。全国を旅して回ったというのに、こんなに話をしたことはなかった。
 退院の日、ふたりで川沿いを歩いた。春の日差しに川辺から綿ぼうしが舞い上がる。偶然にふれあった指先から、お互いの手のひらをからめた。橋を渡る途中、ふと気になって欄干から身を乗り出す。ブリキの鍋がひとつ転がっているだけで、そこにはもう誰もいなかった。
 どちらから言ったわけでもない。足は自然に少女の生家へと向かっていた。門扉に手をかけると、わずかに鉄のきしる音がした。すべてはここから始まったのだ。
 ――いま、帰ったよ。
 透き通った声が、玄関にこだまする。主を失った家屋はがらんとして、返事があろうはずもなかった。背後から差し込む陽光に舞う埃が、喪失の感じを強くする。私は座敷へ上がると、少女へと向き直り、声音を作った。
 ――おかえりなさい。さぞかし、疲れたでしょう。
 少女は大きく両目を開いて驚いたように私を見つめると、泣き顔とも笑顔ともつかない表情を浮かべる。そして、意を決したように私の両腕の間へと身を投げた。少女の両親が死んだ日と同じように。
 布一枚の向こうにあるしなやかさを通して、少女の傷の形がありありと見える。家族や、社会や、歴史や、世界や、そんなものはぜんぶくそくらえだ。
 私は少女の背中に両腕を回すと、強く抱きしめた。せめて、この手の届く範囲のものだけは逃さないように。
 唇が重なると、呪うべきか、寿ぐべきか、すべては正しくなった。


 血のついた脱脂綿をジッパーつきのビニルに収める。少女はわずかに身を震わせて放心しているようだったが、毛布をかけて頭に手を置いてやるとすぐに眠った。
 私はベッドサイドの明かりだけを頼りに、幾枚もカーボンの写しが付いた書類を埋めてゆく。膨大な量である。実際にすべての記入が終わったのは、少女が起きだし、また眠り、そしてもう一度起きてきてからのことだった。
 翌日、私と少女は最寄の役場へと向かった。整理番号が印字された紙片を渡し、用件を告げる。丸眼鏡をかけて黒い肘あてをした職員は、いぶかしむように上目遣いで私と少女を見た。そして、整理棚の奥へと消える。
 長い時間が経った。少女が不安に私の袖を引く。すると、分厚いファイルを抱えた職員が戻ってくる。事務机にファイルを置くと、表紙に浮いた埃をひと吹きした。そして、眼鏡をぬぐいながら、「なにぶん、初めての申請でしてね。わかりませんよ」と小声で言った。
 その日、無数のAvenger Licenseのうちの一枚が初めて国へと返却され、ひとりの少女が少女殺人者であることを止めた。
 「予の少女」は永久に消滅したのである。